月のなき夜道となりぬ牛祭  三幹竹


我が国で、いつ頃から牛乳を飲むようになったか諸説あり、

日本書記巻第三の、

『弟猾(オトウカシ)大きに牛酒(シシ)設けて、

皇師(ミイクサ)に労へ饗す。


天皇、其の酒穴(シシ)を以て、軍卒に班ち賜ふ』


と記されているところから、

すでに搾乳されており飲用されていたと知る説もありますが、

これは間違いで牛乳で造った酒でなく、

牛乳と酒を振舞われたとする説が正しいようです。


牛乳を飲む風習、習慣は新撰姓氏禄によれば、


『和薬使主(ヤマトクスシノオミ)…

持内外典薬書明堂図書等百六十四巻、

仏像一躯、伎楽調度一具等、入朝、

男善那使主、天方豊天皇、御世依献牛乳賜、姓和薬使主』


とあり、帰化人の間ではすでに飲用されており、

善那が孝徳天皇(645年~54年在位)に献上して、

和薬使主の姓を賜ったとありますから、

始めは薬としてすすめています。


文武天皇(683年~701年在位)が、大宝元年(701年)に

制定した大宝律令の職員令典薬の諸種定めた典薬寮に、

牛乳を新しくしぼる家を新しく設けています。


続日本記和銅六年(713年)五月の条に、

『始令山背国点乳戸五十戸』 とあります。


令書解巻五にも、

『乳戸五十戸 経年一番焼十丁』

とあり、当初は五十戸設けれれ、搾取量は延期式に、

肥牛で大八合、痩牛ではその半分しかとれなかったとありますから、

一戸で一頭飼育し毎日八合とれたとして四斗。


随分飲まれていたように思えますが痩牛もあり、

乳牛として改良されていたのか不明ですので、

僅かな量だったと思います。


しばらくの間牛乳は天皇貴族たちの限られた人々に飲用され、

庶民に愛用されるようになったのは明治に入ってからです。