稲刈りて猪待つ小屋は荒れ似けり  青々


『いのししやむじなのわきで工藤死に』(柳多留12)


この句は建久四年五月二十八日の出来事で、富士の巻狩の折、

工藤祐経が蘇我兄弟に討たれた時の様子です。

鎌倉武士は巻狩をよく楽しみ、

獲物の猪や鹿も大いに食べたと思われ、

平家を圧倒したのも肉の蛋白質のおかげです。


武士は名をあげるのはのはこの時とばかり張りきりますが、

獲物と一対一の戦いを挑む漁師は、

生活のためとはいえ殺生する事にやり切れなかったようです。


『猟人の妻産み落とすまで案じ』(柳多留146)

生れ出る我が子に夫婦ともども五体満足を願いました。


再校江戸砂子(明和8年 1771年)に、

『獸店平河町三丁目にあり、

毎年冬より春まで獣ひさぐ店おほし』


とあり、漁師夫婦の心配をよそに

江戸っ子は薬食へと確実に加速していきます。


江戸繁盛記(天保3年 1832年)には、

『前日麹町ひさぐところの肉包苴するに、

敗傘紙以てせり。今は皆たけのかほにす。

即ち都下一才幾万の敗傘覆た用ひるに給らず』


肉を包むのも敗傘の紙でなく竹の皮へと変わります。

その中に肉が包まれている事は誰が見ても明らかで、

少しずつ人々の目から抵抗が薄れ市民権を得ていきます。


そのひとつに料理法の進歩もあり、

獣肉の独特の臭みやわらげ、

肉の硬さを少しでも軟らかにしようと工夫されていきます。


大和本草(宝永5年 1708年)に、

『猪及鶏肉を煮る方、前日より淡醤水を以久しく煮おき、

明日将二食まへに又よく煮れば、堅肉も軟なり野猪の性不悪。


然るに食傷する人多きは味美にして多食する故なり』

と記されています。


江戸繁盛記には、

『山鯨凡肉宜葱、一客一鍋連火盆供具為』

獣肉を売る店だけでなく、食べさせる店も出現しました。