堅田鮒雨あがりて日少な  涼舟


江戸の頃鮒料理として人気の高かったのは

琵琶湖の源五郎鮒。


広重の行書版東海道五十三次に、

大津の名物として看板に『名物源五郎鮒』 と描かれています。

名前については当時から諸説ありはっきりしません。


本朝世事談綺(菊岡枯涼 享保19年 1743年)に、

『近江の産なり。こ鮒湖北北尾上嶋津といふ所にて取り、

その所の長を源五郎といふ。よってこの名あり。


また源五郎といふ漁人多く漁れば、我糧ほど残し、余りまた放す。

この事草紙物にあり。


また云う。元来夏頃鮒(ゲゴロブナ)なり。

初鮒は正月の末よりとり、三月のすえさかんにして、

四月夏(ゲ)に入るころ、この鮒多く取るなり、


常の鮒とは状異なり。

いつのころにか、源五郎と、人の名によびあやまれり』

とあり、漁師の名前と夏頃鮒説の両方を取り上げています。


及埃随筆(原田光風 安政6年 1859年)巻八には、

『淀鯉堅田鮒一雙の名物なりと云伝ふ。

六角(佐々木)の家臣錦織源五郎といふもの、

はじめて網しとれり。故に名付くと。


また鮒は夏に入りて味ひ美なり、故に夏頃鮒ともいふと』

こちらも夏頃鮒説にくわえて、

六角の家臣錦織源五郎説を取り上げています。


漁師説を最も支持しているのが本朝食鑑。

本朝世事談綺より四十年前の刊行で、

漁師説しか記していません。


『近世琵琶湖の漁師で源五郎という者あり。

大鮒の肥美なりものを能く捕えたので、

琵琶湖鮒の名になったのである…


味は江州琵琶湖の鮒が第一である。

形は他所のものとは殊なっており、

頭は円く、身は肥厚で鰭骨は軟脆く、

味もやはり極めて美い』 と絶賛してしています。


夏頃鮒説は頃合わせの感が多分にありますが、

捨てがたいようで、

魚鑑(武井周作 天保2年 1832年)に、

『世に琵琶湖の産を上とす。俗に夏頃鮒といふ。

夏の頃その多くいづるをもってなり。

後誤りて源五郎ぶなといふ』 とあります。


錦織源五郎説は、琵琶湖の漁師を統括する立場にあり、

幕府や宮中に献上していたことから浮上した説です。


燕石雑誌(滝沢馬琴 文化6年 1809年)巻一も、

『室町家のとき錦織源五郎といふもの、湖水の漁猟を司りて、

毎朝大なる鮒を京都へ進らせしかば、この名ありといふ』


と錦織説。近江国与誌略もこの説をとっています。


夏頃鮒説は夏の洗いを美味としたところに

拠り所がありますが、

『近世歌人が紅葉鮒と詠じじているのは、

秋の紅葉の時期に、この魚の肉厚く腹の子が多く、

味も美味となる』


と本朝食鑑にあるように、人それぞれの味覚の違いで、

語源説の支持も変ります。