鯛網の沖とは聞けどうち霞  麦雨


鯉は里の字をあてて川魚の王様に対して、

鯛は魚に周の旁をあてて、

その名はあまねくゆきわたり魚の中の王様です。


『喰いますかなどと文王そばへより』(江戸古川柳)


『釣り針をしまって周の代始め』(江戸古川柳)


鯛の語源のひとつに、

太公望と後の文王(周王朝の基礎をつくった王)にあやかり、

魚偏に旁が周で鯛が縁起魚になった説もありますが

あまりあてになりません。


その他に、延喜式に出てくる平魚(タイラウオ)がつまって、 

タイになったという説もありますがはっきりません。


『腐っても鯛は四五けんつとめて来』((万句合明和8)


『二三軒つとめて鯛は暑にあたり』(柳多留48)


江戸っ子は戴き物の鯛を、

貴重な魚として義理ある他家へ廻したようです。


『南風や今宵なん所の鳴門鯛』(柳多留133))


譚海(津村正恭 安永~寛政年間 1772年~1801年)巻四に、

『播州赤穂の人物語せしは、

阿波の鳴門をこえし鯛は、肉かたく味ひ殊に美なり。

その鳴門を越えたるしるしは、鯛の鼻に一きざ段付きあり。


二度こえたるは段二つつきてあるを、

その印は見わけはべるなりといへり。


されど鳴門の波は鯛のはなに段つくほど

けはしとなりとしられかり』


と身のしまった鳴門の鯛を絶賛しています。

『所変れば品変わる』 というところでしょうか。

江戸の味覚はまったく逆のようです。


矢田挿雲の江戸から東京への、名人伊豆長の中で、

魚屋の若者が江戸前、活鯛、伊豆鯛を前にして、


『江戸の鯛は、八百八町から流れでる流し汁を食って

内海の静かな浪にもまれて安心して遊んでいるから、

人品が良く形なんか見ねえでも食って見れば分かる。


活鯛は、食物に不自由なく肉も一番肥えているけれど

籠のなかで気に心配がある。魚だって心配は毒だ。


伊豆鯛は、荒ら海で暴れ廻って貝殻を鼻柱で

たたきこわして食うんで鼻が曲がってらあ、

味が大味でよりどころのねえ鯛だ』

と啖呵をきっています。


『またくらの痣は鯛だと海士はいい』(江戸古川柳)


詮索はさておいて、鯛は、頭ばかりでなく骨も固く、

三枚に下ろす時うっかり小骨をさそうものなら大変で、

かなり痛み化膿する事もあります。