蛤の薄紫に乾きけり 虚子
献礼の席に蛤の吸い物はつきものです。
平安の昔から、蛤は貝合わせの遊びに用いられたように
他の貝殻とは合いません。
そこか貞女二夫にまじえずの教えに添ったとする説。
蛤を女性に見立てその辺りから来たとする説などあります。
江戸の頃、雛祭りの祝いの席でも蛤を出す風習があり、
雛段に使用する皿に蛤をあてたようです。
川柳も格好の種で多く読まれています。
『蛤であげるが娘気な入らず』(江戸古川柳)
『にえきらぬ蛤むりに口をあけ』(江戸古川柳)
『蛤は初手赤貝は夜中なり』(末摘花1)
狂歌にも詠まれていますが、
いずれも女性に見立てています。
鴫立沢の飯盛り女に掴まり困った様子を、
『蛤にはしをしっかとはさまれて
鴫たちゆかねる秋の夕暮れ』(宿屋飯盛)
良く出来た話として、松尾筆記(小山田与清 年代不詳)に、
八代将軍が倹約のために、婚礼の吸い物に蛤を勧め、
華美に走らないように心掛けさせたとしています。
貝合わせにも見られるように、他の貝殻と合う事もなく、
家庭生活の模範として勧めたと記されており、
それが今日の風習として残っていると吉宗説。
『蛤はすふばかりだと母おしへ』(柳多留)
は文化二年(1805年)が初版です。
『蛤吸物を喰って叱られる』(万句合)
は少し前の安永四年(1775年)の作です。
『蛤は初手赤貝は夜中なり』(末摘花1)
は寛政三年(1791年)の句です。
いずれも八代将軍吉宗在位(1716年~1751年)の
後に読まれた句で吉宗説も捨てられませんが、
ここは貝合わせで、貞女二夫にまじえずと
素直に受け入れたいところです。
蛤の語源は、浜にあって栗に似ているからが一般的です。