小豆粥此のあけぼののにほひかな  升六


一月十五日は元旦の大正月に対して小正月です。

江戸の頃はこの日行われる火祭りの行事を、

左義長(サギチョウ・三毬杖)といいました。


男の子が口々に、

『おえんさん、だんなさんしめなわくださんせ、どんどへあげる』

と言いながら、家々を廻って門松や注連縄を集めて、

十五日の夜半から雇いの男の手助けで、

川岸で焼いたといいます。


『御代はどんどと左義長の君を賀し』(柳多留94)

今に伝わるドンド焼きです。


この日小豆粥を食べる風習がありました。

左義長との関係は分かりませんが、

中国の頃荊楚歳時記に正月十五日に豆粥を作るとありますから、

日本に伝わってから小豆に伝わったようです。


野乃舎随筆(大石千引 文政3年 1820年)に、

『長明四季物語に、(七種の御あつもの、けふまでとどめおきて、

ひとつ御かまにて、とうじなしで奉れば…


しるしばかり御いきふれさせ給えり。

あかつきは湯の色からめせ…)云々。今の世に十五日の粥を、

十八日まで置て食するは非なり。

昔は七種の粥を、十五日の小豆粥をひとつに調じて食せしなり』

とあり、小豆粥といっても七種の残りや菜類も入れたようです。


明治の初めの頃の料理書には

米一升に小豆四升の割で塩を加え煮る。

夏、良く冷やしてから砂糖をかけて食べるとありますから

小正月に使用する小豆粥とは違うようです。


その割合も昭和になると米一升、小豆一升と変わり、

小豆の量も減ります。


『十八はなめる斗りの小豆粥』(柳多留38)


『正月は片身おろせば小豆粥』(万句合 宝暦13年)


『小豆がゆ家のけぶりの立チはじめ』(万句合 明和元年)


小豆粥は小正月だけでなく、

一月十八日、十一月一日、その他に、引越しの際にも食べました。

その名残でしょうか、

赤飯で祝う風習は小豆粥からとする説もあります。