伊勢海老の鏡開きや具足櫃 許六
本朝食鑑穀部之二餅を記した項に、
『昔から餅を神明の供物とし、大円塊に鏡の形に擬える。
それで餅を鏡というのであるが、
八咫の鏡に擬えたものであろうか。
正月朔日の朝、必ず鏡餅を諸神に供え…
あるいは武家では具足餅といって甲冑に供えるが…
春の初めの吉日に、この供え餅を煮て、
上下ともに相依って拝嘗する。これを具足の餅の祝いという』
せえずり草松の落葉(加藤雀庵 天保~文久3年 1830年~1863年)に、
『足立郡四ツ谷村…正月元旦の雑煮はさらなり、
餅を食う事深くいましめつつしみて、
さて正月二十八日に至りて始めて餅を開くといえり』
御供えの後は鏡開きです。
初めは一月二十日頃行われていたようですが、
三代将軍家光の慶安四年四月二十日の死去にともない
この日を忌日とし、翌年より正月十一日にしたとする
説もあります。
鏡餅をくずすのも刃物で切る事を嫌い
槌等で打ち欠いたようです。
雲錦随筆(暁鐘成 文久2年 1862年)に、
『摂津国兵庫の津の西に長田神社といふあり。
祭神事代主命とぞ。此の社に例年正月十六日の
夜の亥の刻過ぎより…
斧にて餅を破る所作をなすをおわりとす…』
その後に、
『具足の鏡開きは正月十一日を用てす。
刀をもってこれを切ることを忌む故に
手を以って之を破り、これを欠いて食す』
と続きます。
鏡開きに刃を入れないのは、本朝世事談綺に、
『具足に供えたる鏡開きは、
惨殺の詞をいみて刀を入れず』
正月十一日の鏡開きに刃物を使わない風習は
武家から始まったようです。
絵本江戸風俗往来に、
『家の座敷毎にも飾り、商店正面へも徹して
見事に粧い飾りたる大ずわりを、
残らず徹したるを一一日にて、この供物を割りて』
とあり、幕末には庶民の間にも定着しました。