餅箱の父の書にある年齢となる  正登


『餅を焼く匂ひで上戸いと乞い』(柳多留20)


年始客が酒なら待つが餅では迷惑と逃げる様です。

この句のように酒と餅は上戸と下戸の対として

使われる事もあります。


料理物語(寛永20年 1643年)第十八菓子の部に、

菓子として十四品目記載されていますが、

その内十一品目が餅菓子です。


餅菓子の名は江戸中期から使われていたようで、

現在の和菓子に近い物です。


餅は神事の他に祝いにも欠かせないものです。

年中行事では正月の鏡餅.、三月三日には草餅ですが、

平安の頃に伝わり、室町の頃に蓬餅と名前を変えます。


その他に、今は見かけませんが十月亥の日に食べる

亥の子餅がありました。


亥の子餅の歴史は古く、

摂陽落穂集(浜松謌国 文化5年 1808年)巻二に、

『毎年三つの亥の子に、朝廷へ餅を献ず。

そのはじめ神功皇后、三韓帰朝より始めて、

今年まで旧例を欠かさず…』


とあり、その製法は、

『糯米に豆を合わせてこれを蒸し半搗、その色薄紅なり。

長さ六寸五分、渡り四寸、深さ二寸の箱に入れて納める』


同じ記載が我衣十九巻にも、

『その箱を分かち給いて江都に至る。

この例凡そ千年に及ぶといふ』


という長い歴史のある亥の子餅が、

何故か忽然と姿を消します


餅搗きのスタイルは、始めは堅臼で女が搗き

男がこね取りしました。


横杵を使うようになってからは、

男が搗き女がこね取り役で安永、元禄の頃から

今に続いています。


本朝食鑑によれば、

『大抵五穀は餅に造る事が多い。

粟、黍、大麦、小麦、胡麻、玉蜀の類はそうである』


餅は保存食として色々と工夫されています。


※白くまさんに教えていただきました。

 亥の子餅は現在もありますよ。

 茶道の炉開きには欠かせないものですと

 教えていただきました。

 訂正とお詫びをさせていただきます。

                   (2007.12.28)