明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。

久々の記事になります。特段変わったことはなかったのですが、久しぶりに記事を書きたいと思います。


改めまして、

こんばんは。

皆さま、今日も頑張りましたね。

お疲れ様です。

 なにはともあれ、私は以前と変わらずに皆さんの幸せを願っています。

 先ほど、私は変わったことはなかったと書きましたが、社会がもっともっと安心で安全な社会になればいいと思い、小さいことですが、自分にできる社会貢献をしております。

 社会貢献というと大袈裟に思えるかもしれませんが、私は感謝する気持ちを意識しています。

 本で読んだのですが、脳は自分が発した言葉を自分に対してか相手に対してか判別できないそうです(誤りだったらごめんなさい)。

 例えば誰かに「頑張ったね」と言った場合、それは自分に対しても言ってることになります。自分へ労いをしていることになるそうです。

 1人で過ごしている場合には独り言になりますが、皆さんも良かったら自分に頑張ったね、色々あったけど今日も1日お疲れ様!と声をかけてあげてください。

 ちなみにこの時に、両手を広げて、自分で自分を抱きしめてあげると効果抜群です。

 最初は少し気恥ずかしいかもしれませんが、大丈夫です、誰も見ていません。慣れてくると外出時や仕事の合間にこっそり出来るようになりますよ。

 

 話しは変わりますが、今日私には悲しいことがありました。人に言われたことで心からショックを受けましたし、自分の大切にしている信念のようなものを否定された気持ちになりました。

 結果には原因がありますので、その原因をつくった私の責任でもあります。ただ、コミュケーションというのはブラックボックスのようなものと捉えれば、私が発した言葉を相手がどう受け取るかは分かりません。今回は相手からの反応が私の予想外でした。ボールをキャッチすることは何とか出来ましたが、私の反応としては悲しさが主を占め、怒りのような感情も少しありました。厳密に言えば怒りという感情は困惑から生じたものなのですが、あくまで冷静さを装い堪えました。

 人には立場というものがあり、それぞれ違います。今回は立場の相違から生じたものかもしれませんし、その人の考え方との違いかもしれません。

 いずれにしても、今回は良いか悪いかは別として経験にはなりました。

 経験は学びになると思います。

 

 経験といえば、あくまでもあることを経験するまでは、何も分からないし、何も得られません。

 というと、経験すること以外の作業は無駄なのかと思われてしまうかもしれません。何事も経験だから、とりあえずやってみようという気持ちは大切ですが、それは精神論、根性論になりかねません。

 もちろん何事にも挑戦する気持ちはあってもいいし、目標に邁進することは時に立派かもしれません。オリンピックで活躍するアスリート、箱根駅伝で襷をつなぐために走る大学生には感動します。販売売上が過去最高は嬉しいです。

 そういう人、そういう仕事に就いている方は素晴らしいと思います。

 かと言って、そうじゃなくて、不安や心配から身動きが取れず、何もできないと絶望的な気持ちになってる人の気持ちも分かります。

 なぜなら私がそうだからです。不安で朝が来ないで欲しいと思うけど、寝られないつらさを知っています。引きこもっていた数年間があります。匿名ということに安心してというわけではないですが、今も心療内科に通い、カウンセラーさんとも相談しています。

 今は少し落ち着きましたが不安が強く、気分が乱高下する時期もありました。だから、挑戦というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、家から出ることさえ大変な時期もありました。

 というわけで、経験という言葉から派生してつらつら書きましたが、経験が全て、活躍することは素晴らしい、目標達成が善だと思い切る、言い切るつもりはありません。

 なので私はありのまま、そのままで良いと思います。

 あなたにはあなたの調子があります。確実にあります。私にも当然あります。それは誰と比べるものではないと思います。気分や調子が悪い時は自分を第一にして、恐いと思ったら全速力で逃げてください。それが私の思いです。


 経験といえば、、、デジャブと思われた方すみません。

 エジソンの卵の話しがあるように、経験してみないと分からない事もたくさんあります。それはそうなるに決まってるでしょと言う人もいます。

 小さい子供は何度も転んで歩けるようになります。熱いという体験を何度もして、お湯が熱いから気をつけます。これは経験です。

 自転車を補助輪無しで初め乗れる人は多分少ないです。何度も転んで、擦り傷を作ってようやく補助輪無しで自由に乗れます。

 大人の世界でもそうです。

 昔、海外が舞台の小説を書いた人Aがいました。その作家は現地に行って感じたことを元に小説を書きました。そんな時、別の小説家BがAの小説を読んだかどうかは知りませんが、「あんな小説、わざわざ現地に行かなくても書ける」と言いました。

 この発言が良いか悪いかは別としても、実際に現地に行って取材をしたからこそAの小説は完成したんだと思います。ちなみに私はAの小説が大好きです。

 例えが悪いかもしれませんが、冬の雪山に登る人がいます。多分多くの人が危険だと思うだろうし、死ぬ恐れもあります。それでも登ります。実際に死者もいますし、遭難したり、滑落して行方不明の人もたくさんいます。

 そんな時、一定数の人は「だからあれほど止めたのに」、「言わんこっちゃない」と言うと思います。

 もう一つ、宿題をやらずに学校に行った小学生がいます。先生に怒られるのは間違いないという状況に輪をかけて友達が煽ります。そして先生が教室にやってきて、その子は宿題をやっていないことを理由に先生に怒られます。その子は泣きます。本当は宿題ができなかった理由があるのに、それを言わず。先生もどんな理由があったかに聞かずに叱ります。

 人にはやってみないと分からないことがたくさんあります。

 子供も大人も変わらずにやってみないと分からない事があって、初めて気づきます。それがどういう結果になるかは本人にしか分かりません。周りが「やる前に分かるでしょ」という意見もあります。

 明らかに危ない場面、状況、結果になるのが分かる場合には事前に子供にも大人にも教えてほしいと思います。それが安心で安全な世の中になるとひとつの方法だと思います。

 それ以外の場合には、自分に補助輪が付いてるかのように経験するのも良いと思います。もし「補助輪つけてるのか!ダセー」と言われても、完全に無視していいと思います。


 今は資本主義に加速主義が加わっているという学者もいます。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス、どこまでも利益と効率が求められているというか、追求されていると思います。 

 スマホの普及によりスマホを使えば、物も買える、映画も観られる、仕事もできる、多分家から一歩出ないで完遂する生活スタイルがあります。

 もちろん分からない事は瞬時にスマホで調べられます。

 もしかしたら、「そんなことやる前に分かってるじゃん、スマホで調べればすぐに解決出来るよ」という人にたくさん出くわすかもしれません。


 でも僕はカタツムリのような速度で進み、晴れの日は涼しい土の中で、雨の日は元気に外をお散歩したいと思います。


 久々の記事でしたが、過去最高に長い文章になってしまったように思います。

 私の記事を読んで頂きましてありがとうございました。