4月30日付けの毎日新聞に、『イタリア・オペラ復権の「戦い」』と題して、指揮者リッカルド・ムーティの記事が乗っていた。

 

 

 

ムーティー氏は、3〜4月に開催された「東京・春・音楽祭」において、ベルディの「仮面舞踏会』を振った。また、音楽祭の一環として開催された「ムーティイタリア・オペラ・アカデミー in 東京」において、イタリアオペラの精神を若手音楽家に継承するために来日したということだ。

 

 

以下、記事から若干引用すると、

 

「ムーティ氏は、イタリア・オペラがモーツァルトやワーグナーらの作品とは異なり、娯楽性の高い作品として演奏され、観客からもそう求められていることに危機感を抱いている。」

 

『。。。高音を叫ぶように歌ったりする大げさな表現について「イタリア・オペラが尊敬されなくなった。サーカスのようになってしまった」などと述べ、繰り返し苦言を呈していた。』

 

 

この記事が、ムーティの言いたいことを正確に伝えてるかどうか、甚だ疑わしいと思うが、仮に本当だとすると、

 

イタリア・オペラが、ワーグナーと同じように「娯楽性がない」ものとして認められる必要は全くないと思う。

 

そもそも論を言えば、どうして、「芸術性」と「娯楽性」が反比例するものとして捉えられるのかが問題だし、さらに、なぜ「芸術性」は「娯楽性」より価値基準において上位にあると考えるのか、まずそこから論じなければならないんじゃないの。

 

「娯楽性」とは、言い換えれば、「観客へのサービス精神」ということだと思う。だとすればイタリア・オペラの持つ「娯楽性」は非常に貴重ではないだろうか。

 

 

私の全くの主観だが、おそらく、ここで、ムーティ氏が言いたいのは、

 

「不必要に大げさな歌唱や表現をするべきではない」ということではないかと思う。それは、単に「観客への受け」を狙ったアーティスト個人のアピールであって、作曲者へのリスペクトとか、作品全体に対する理解とか、共演者への配慮に欠けていることになる。

 

 

 

もう一つ、記事には、ムーティ氏の重要な指摘が書かれている。そして、ムーティ氏が「芸術性」云々と述べているのは、おそらく、これを言わんがためだと思われるのである。

 

それは、原作の表現に変更を加えることに対する強い批判である。たとえそれが、現在では差別的と見做される表現に関してでも、である。

 

たとえば、今回演奏された「仮面舞踏会』では、白人の裁判官が黒人の占師ウルリカに対して、「穢らわしい黒人の血を引いた者だ」というセリフがある。

 

ムーティ氏は、人種問題が根深いアメリカでも、当該の箇所を変更なしに演奏したといい、

 

「歴史を変えることはできないし、変える必要もない。なぜなら、若い世代の人たちも昔起こった醜いことや事件などは知るべきだから

 

そして、

 

「オペラでは、色が黒いということがいっぱい出てくる。それを白くしてしまったらセリフも何も意味がなくなる。そう見ること自体が差別になる。芸術作品としてのオペラは、作曲家が書いた通りに表現することが大事だ」

 

と述べている。

 

ムーティ氏が「オペラは芸術作品だ」と強調することの最大の意味は、実は、ここにあるのではないかと思う。

 

 

いきすぎた”ポリコレ”の嵐が吹き荒れるアメリカ(やイギリス)で、イタリア・オペラを擁護するのは、私たちが想像する以上に大変なことなのかもしれない。

 

ムーティ氏が「イタリア・オペラの芸術性」を声高に主張する裏側には、実は、「ポリコレに対する闘い」が隠れているのはないかと、私は思っている。

 

 

 

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<追記>

 

一つ、とても気になることを思い出した。

 

3月に鑑賞したムーティ指揮の『仮面舞踏会』。リッカルドを演じたアゼル・ザダ(テノール)が全然冴えなかったのだ。

 

その時は、人選ミスか、あるいは、単に調子が悪いだけなのかと思っていたのだが、もしかしたら、もしかしたら、”高音を叫ぶように歌ったり、大袈裟な表現”に苦言を呈したムーティに配慮して、アゼル・ザダが本来持っている個性を十分に発揮できなかったとしたら。。。

 

あくまでも私の憶測で、事実は全くの謎ですが。。。