7月13日(水)、東京文化会館にて、『パフジファル』を観賞した。二期会創立70周年記念公演だという。

 

 

 

 

オペラ観賞において、特にどこに力点をおいて観賞するかは、個々人によって異なる。

 

ある人は、歌唱に、

ある人は、演奏に、

ある人は、演出に、

特に注目して鑑賞する。

 

歌唱や音楽に関して素人だということもあるけど、私は、この中で、演出に一番興味がある。

 

だから、今回、宮本亞門が、ワーグナーの「パルジファル」をどう解釈するのかに大変興味があった。

 

 

私は、基本的に、パンフレットは読まない。

 

説明がなくては分からないような演出では意味がないと思っているし、演出の解釈は個々人の自由なので、仮に私の解釈が、演出家の意図したところとは異なっていたとしても、それはそれで意味があると思っているからである。

 

だから、以下の解釈は、完全に私の独断と偏見によるものである。

 

 

 

さて、今回、宮本亞門演出の「パルジファル」を観て、私の率直な感想は、

 

宮本亞門の関心事は、おそらく

 

「パルジファル」の世界観を、異教徒である日本人が演出したら、どうなるか、ということにあったのではないか、と感じた。

 

言い換えると、

 

「森羅万象に神々が宿る」と考える日本人にとって、

「唯一絶対神」を奉じるキリスト教の世界観がどう見えるか、

 

ということである。

 

 

ワーグナーは、「パルジファル」を「神聖祝典劇」と銘打っている。

 

宮本亞門の演出を見て、まず感じるのは、

 

神聖」さを否定している、ということ。

 

さらに言うと、「パルジファル」がまとう”形而上”的で”深淵な”要素を、「おちょくっている」こと、である。

 

そして、さらに、キリスト教の持つ、「血なまぐささ」を戯画化しているとも感じた。

 

 

 

一つ、具体的に指摘すると

 

1幕で、先王ティトゥレルが登場する場面。

 

彼の様相はまるで、フランケンシュタイン。息子の血を飲んで生きながらえる怪物。

 

彼が息子に儀式を行うことを強要するのは、”儀式”云々は単なる口実。老いさらばえた自分が生き延びたいためとしか思えない。息子の苦しみや痛みを一顧だにしない。

 

場面は、手術室。

 

アムフォルタスが手術台に横たわると、グルネマンツ(?)が槍を王の脇腹に突き刺し、流れる血を聖杯で受け取め、ティトゥレルに差し出す。

 

血塗られたキリスト教の歴史を彷彿とさせる演出だった。

 

”血”とは無縁の宗教感を持つ日本人ならではの演出ではないかと思う。

 

 

 

もう一つ特筆すべきは、影の存在としての”子供”と”母親”。

宮本亞門の演出には、しばしば登場する。

 

前奏曲の場面。

 

若い未亡人がベッドで悶々としている。夫亡き後の欲望に悶えているのだろうか? そこへ、男(職場の上司?)が現れ、二人は抱き合う。

 

その場面を息子(小学生低学年くらい)が見て、彼は、家を飛び出してしまう。

 

 

私は、パルジファルを過去に2度ネット鑑賞したことがあるので、この子供がおそらく、パルジファルの子供時代を象徴しているのではないか、という予想はすぐについた。

 

面白いのは、母親が決して品行方正な女として描かれているわけではなく、誘惑に負ける弱い女として描かれている点、また、子供の目から見ると、父親を冒涜する女として描かれている点である。

 

その意味で、母はクンドリと重なる。

 

ワーグナーにとって、聖なる”母”性と、淫なる”女”性は表裏一体なのであろう。

 

子供は、その後、パルジファルと共に聖槍を取り戻す旅に出ることで、人間的に成長し、最後に、母を許すことができた。

 

 

この母と子の物語を挟み込むことによって、宮本は、”神聖祝典劇”であるはずの「パルジファル」を換骨奪胎し、世俗化することに成功している。

 

 

 

今回の演出の舞台は、子供が逃げ込んだ美術館。

 

母親は、どうもこの美術館に勤務しているようだ。浮気の相手は職場の上司か。(あるいは、ハラスメント被害にあっている可能性もある)

 

パルジファル、アムフォルタスらの面々は、キリストの受刑図等から立ち現れた亡霊というか、怨念のイメージというか、負のオーラというか、そういう非定形なものが具象化したものという解釈。

 

 

アムフォルタスの部下(聖杯の騎士)たちは、過去、世界の諸地域における諸々の戦乱で傷ついた兵士たち、という設定。彼らも、聖杯の血を飲み、傷が癒されることを願っている。

 

 

すごい話だよね。

自分の痛みを癒すためなら、他人の受ける拷問は100年でも我慢できる、ってやつ?

 

 

イエス・キリストは、人々の救済のために血を流した。いわゆる贖罪ってやつ。でもキリストは死ぬことができた。

 

アムフォルタスの場合は、違う。

人々のために血を流すけど、死ねない。傷が癒えて再生する。毎日死の痛み、苦しみを味わい、キリストのように、”死”という安らぎを得ることがない。

 

「パルジファル」を理解する鍵は、アムフォルタスにあるのではないかと思う。

 

 

クンドリと母性が重なるとしたら、

 

もう一方の軸は、

 

ティトゥレル ー アムフォルタス ー パルジファル

という父(男)性の繋がりだと思う。

 

そして、こっちの方がよほど複雑怪奇で興味深い。

 

 

 

この演出でよく分からないのは、ゴリラの存在である。

 

このゴリラは一体どこから来たの? 

 

森を描いた絵画の奥から出てきたの?

男の子が抱いていたぬいぐるみなの? 

博物館に置いてあった人間の祖先としてのゴリラなの? 

 

 

そしてこのゴリラは、聖ヨハネよろしく何度か天を指差して、イエス・キリストの存在を暗示したりしている。

 

聖ヨハネを模したかどうかは不明だが、

 

ゴリラの存在が「パルジファル」の“聖”性をおちょくっていることだけは間違いないと思う。

 

 

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歌唱に関しては、期待以上だった。

 

ただ、過去に、METのストリーミング配信で、カウフマン、パーぺ、マッテイの、ありえないレベルの歌唱を聴いてしまったので、二期会トリオに対する細かい言及は割愛したいと思う。

 

クンドリ役の田崎尚美は、「さまよえるオランダ人」でも聴いたが、ワーグナーとの相性が非常によい歌手だという印象を受けた。

 

 

ヴァイグレの演奏は、うまく表現できないのだが、(いい意味で)ワーグナーっぽくなかった。その意味では、宮本亞門の演出ととてもよくマッチしていたように思う。

 

 

 

鑑賞する前は、絶対に寝落ちしてしまうだろうと危惧していたが、演出の面白さに引き込まれて、クンドリが高く宙に浮いて昇天するあたりを除いては、ぜんぶ覚醒していた。自分でもびっくり。

 

 

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指揮:セバスチアン・ヴァイグレ

演出:宮本亞門

 

アムフォルタス:黒田博

ティトゥレル:大塚博章

グルネマンツ:加藤宏隆

パルジファル:福井敬

クリングゾル:門間信樹

クンドリ:田崎尚美

 

管弦楽:読売日本交響楽団

 

第一幕:17:00〜18:30

第二幕:18:55〜19:55

第三幕:20:20〜21:30

 

 

 

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