酸っぱいぶどうのなにが悪い


耳にキンとする子どもの声にぎゅうと眉根を寄せてイヤホンを突っ込み、なかば強引にベビーカーを電車に滑り込ませてくる強引さにため息が出る。

その子どもの顔の造作が、不手際でパイ生地をつぶしてしまったような"でき"で、

極めつけに、小さなちいさな手はスマホをしっかり掴んで、うつろな瞳でぼうっと動画を眺めている。


そういうときに、私の気持ちはすうとなる。

こんな子どもならいらない。


そうだ、これはみにくい妬みであり、酸っぱいぶどうでしかない。

でも、それのなにが悪いのだ、と思う。


心理学では認知的不協和と呼ぶという

「自分の行動や考え」が「事実」と異なるときに、その矛盾の解消を図ろうとする人のこころの動き。


高い木の上のぶどうを取ることができずに、そのぶどうを「酸っぱくて不味いに違いない」と思うきつねは、たったひとり、自分で自分のこころを守ろうとするもの悲しい獣。


騒がしいフードコートでべちゃべちゃとうどんをこぼして、うんざりしているような表情も

前とうしろに幼児を乗せて、ひっつめ髪のすっぴんで、肩をいからせるように電動自転車をこいでいく姿も。


子どもなんていなくてもいいや、と思える瞬間、そのときだけが、私の心にひとときの平穏をもたらす。

それくらい許されてもいいはずだと思う。