人間は生まれるとき、生きるとき、死ぬときも一人なのか
『人間、生まれたときも一人、死ぬときも一人である。』一遍上人語録より
こんな言葉をよく聞く。 他の人と協力関係を持って暮らしていても一人
てある。たとえ、夫婦として一緒に暮らしていて死ぬときは別々である。
逆な考え方もある。『人間は一人で生まれて来れないし、一人で死ねない。』
私はどちらも正解だと思う。視点が違うだけである。
ここからは私の勝手な思考である。
【生きていくのは一人なのか】
では、今現実に人間は一人で生きていくものなのか。(尚、この場合の一人
とは、周囲に友達も、親戚も知人も誰もいないというという意味ではない。)
【我が子の成長を振り返って】
特に子供の時は、生まれたときから自立するまで一人では生きていくことはできない。
しかし、成長の過程で、少しずつ自我が目ざめる。でも、周囲の助けはまだいる
。その中で、自分が成長し、努力し、勉強に、スポーツに励んでくると、物事を
自分で決めて行動するようになる。(中学、高校からかなぁ。)当然、何をするに
も一人で決断し、行動する機会が増えてくる。でも、たまに親に相談する。特に
お金、進学については。
一人で決めなくては前に進めないことも覚えてくる。その過程では、人とふれあう
こと等で、いいこと(楽しいこと)も辛いことも本人の心にのし掛かってくる。
逆に自分一人で対処できないこと、悩むことも増えてくる。(中学、高校、大学)
でも、人に頼ることをヨシとしない自我が目覚めてくる。(少し生意気になってき
たなぁ)また、人に相談できないことがあることも学ぶ。当然、心身共に未成熟
な時は、揺れ動く気持ちに精神的に不安定な心持ちとなる場合もあると思う。
それでも、まるで一人で生きてきたかのように振る舞う(高校、大学時代かなぁ)。
日常生活では、自立していなくても自分で決断する、自分で決めることが当たり前
という気持ちがどんどん芽生えてくる。
そんなとき、苦しんでいるのに(周囲に相談できないと決めてしまうような悩みの
遭遇するのか)、周囲の助けを求めずに自分で決めてしまう場合がある。
それが自死という形に表れるのか
親しい人への感謝、心配かけまいとする心配りはあるけれど、過剰な自我は、自分
の命をかけた戦いに一人で望んでいくのだろう。
そこに親の事後の哀しみは見えない。もう、病の領域に入ってしまったのだから。
(我が子のことを勝手に妄想しました。)
【一人で生きていくときとは】
人間は、一人で生きていかなければならない場合もある。
自分に降りかかってくる苦しみ、悩み、喜びは他人には分かち合うことはできないも
のがある。病の苦しみ、精神的な苦しみどちらも自分しかわからない。だから、相談
できない。成長期がさらにそうさせるのだろう。
物事を自分で決めるとき、其れは一人で決断しなければならない。そういう繰り返しで、
人間はいろんな思考を育んでいくものなのか。そこに年齢は関係ない。いくつになって
も苦悩は繰り返される。
ちょっと関係ないが、60,70代になっても親、妻、兄弟に言えない秘密はみんな抱えている。
多分、生き死には関係のない悩みかもしれない。
【2つの世界】
私は、生きて行くには、2つの世界があるように思う。
1つは、一人で生きていく世界
もう1つは、助け合い、寄り添っていく世界。
今の私は、苦しむときは、私一人。かみさんとは哀しみの原因は同じでも、
直球で語り合うことはできない。でも、そばにいるだけで、助けられること
がある。妻以外の友人、兄弟にも助けられている。
この2つが共存、混在して生きて行くことに繋がるように思う。
【今の私】
たくさんの人との関わりが、今の自分を助けてくれていることがわかる。
其れが生きるということなのか。それを得るために人間は生まれてきたの
か。それを学ぶために生きているのか。それは人を愛すること(愛を与え
ることと愛を受けること)を知る為に生きているのかさへ思う。
(ちょっと話を無理矢理つなげています。結論を先に持ってきてい
る感じがあります。理解しにくいのは当然です。)
我が息子も、この2つの世界の中でいきて、友達にも十分に恵まれ、親への
感謝しながら、未熟ながら自分で決断したのである。
他人から見たら、間違っていた選択かもしれないが、やむにやまれぬ決断を
した息子の尊厳を認めてあげたい。守ってあげたい。たった一人の父親だから。
それが、生きている間にしてあげれなかった子孝行と信じ、供養と信じて私
は生きていきたい。
この投稿は2日がかりです。ちょっと仕事中にも考えてました。レポート用紙
3枚になりました。ブログで挙げる内容ではないと思いましたが、吐き出す場
として投稿させてもらいました。最後まで読んでいただき有難うございました。