本書に収められたすべての文章には、初出掲載の日付と媒体名が記されている。それは書誌的な配慮を超えて、本書の性格を、そしてアイドルという存在そのものを、なによりも明確に示しているのではないか。
本書は南沙織や山口百恵らがいた1970年代を視野に収めつつ、80年代以降現在に至るまでのアイドル史をたどることでそれぞれの時代の諸相と〈日本人の無意識〉を分析していくアイドル論集である。
しかし、中森明夫さんは所収の文章の中で最も新しい(2007年3月執筆)書き下ろしの「アイドル女優の可能性」の中で、こう書いている。〈アイドル論は
超えられなければならない〉——それまでのアイドルやアイドル論をいっぺんに古びさせてしまう、まったく新しいアイドルの登場によって。あるいはまったく
新しいアイドル論によって。
だとすれば、80年代半ばから書き継がれてきた中森アイドル論の数々もまた、おのずと「超えられてしまう」宿命を持っていることになるだろう。
もしもそれを逃れようと——せめて延命しようとするなら、2007年の時点から振り返った80年代や90年代のアイドル論を書けばいい。データベース的に
アイドルをとらえ直してみるわけだ。だが、中森さんはあえて本書を初出のまま〈論旨は変えていない〉状態で構成した。結果、後出しジャンケンめいた目で読
むと、微妙なズレや違和感を覚える箇所(かしょ)もないわけではない。
だが、そこにこそ「時代のあだ花」「使い捨て」と揶揄(やゆ)されるアイ
ドルの真骨頂がありはしないか? 〈常に依頼主の求める原稿ばかり書いてきた。目の前の現在を捉(とら)えることに忙しく、時代と併走するライブ感こそが
何よりのよりどころだった〉と記す雑誌ライター・中森明夫の自恃(じじ)は、日本国憲法を挑発的に読み替えた(それは読んでのおたのしみ)本書にならって
「依頼主」を「ファン」や「仕掛け人」に置き換え、語句の微修正をほどこせば、そっくりそのままアイドルの姿にも重なるのだから。
論じる側と論 じられる側ともに〈時代と併走するライブ感〉を残したまま編まれたアイドル論集は、だから、絶えざる上書き更新の記録でもある。ピンク・レディーから小泉 今日子へ、松本伊代から本田美奈子へ、栗尾美恵子から吉川ひなのへ……。さらにまた、上書き更新はアイドル個人の中でも果たされる。後藤久美子から後藤久
美子へ、宮沢りえから宮沢りえへ……。
受け渡されるたびに前の走者を超えていくバトンの軌跡を中森さんは見つめてきた。それは、アイドルの人気を支える〈日本人の無意識
〉の軌跡でもあるはずなのだ。
いつか——いまは未知のアイ
ドルが、本書を丸ごと超えてしまうときが来るだろう。新たな〈日本人の無意識〉が、新たなアイドルを生み出し、新たなアイドル
が新たなアイドル論を生む。その瞬間
を誰よりも心
待ちにしているのは、超えられるための一冊を上梓
(じょうし)した中森さん自身
かもしれない。