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聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言 4:10 わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。そうすれば、命の年月は増す。
 4:11 わたしはあなたに知恵の道を教え まっすぐな道にあなたを導いた。
 4:12 歩いても、あなたの足取りはたじろがず 走っても、つまずくことはないであろう。
 4:13 諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ。
 4:14 神に逆らう者の道を歩くな。悪事をはたらく者の道を進むな。
 4:15 それを避けよ、その道を通るな。そこからそれて、通り過ぎよ。
 4:16 彼らは悪事をはたらかずには床に就かず 他人をつまずかせなければ熟睡できない。
 4:17 背信のパンを食べ、不法の酒を飲む。
 4:18 神に従う人の道は輝き出る光 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 4:19 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ 何につまずいても、知ることはない。
 4:20 わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。
 4:21 見失うことなく、心に納めて守れ。
 4:22 それらに到達する者にとって、それは命となり 全身を健康にする。
 4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
 4:24 曲がった言葉をあなたの口から退け ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。
 4:25 目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ。
 4:26 どう足を進めるかをよく計るなら あなたの道は常に確かなものとなろう。
 4:27 右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。

詩篇 105:1 主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。
 105:2 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい 驚くべき御業をことごとく歌え。
 105:3 聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き
 105:4 主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。
 105:5 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を 主の口から出る裁きを心に留めよ。
 105:6 主の僕アブラハムの子孫よ ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。
 105:7 主はわたしたちの神 主の裁きは全地に及ぶ。
 105:8 主はとこしえに契約を御心に留められる 千代に及ぼすように命じられた御言葉を
 105:9 アブラハムと結ばれた契約 イサクに対する誓いを。
 105:10 主はそれをヤコブに対する掟とし イスラエルへのとこしえの契約として立て
 105:11 宣言された 「わたしはあなたにカナンの地を 嗣業として継がせよう」と。

 105:37 主は金銀を持たせて民を導き出された。どの部族にも、落伍する者はひとりもなかった。
 105:38 エジプトは恐怖に襲われていたから 彼らが出て行くのを喜んだ。
 105:39 主は雲を広げて覆いとし 火をもって夜を照らされた。
 105:40 民が求めると、主はうずらをもたらし 天のパンをもって彼らを満足させられた。
 105:41 主が岩を開かれると、水がほとばしり 大河となって、乾いた地を流れた。
 105:42 主は聖なる御言葉を御心に留め 僕アブラハムを御心に留められた。
 105:43 主は、御自分の民を喜びのうちに 選ばれた民を歓呼のうちに導き出された。
 105:44 主は彼らに諸国の土地を授け 多くの民の労苦の実りを継がせられた。
 105:45 それゆえ彼らは主の掟を守り 主の教えに従わなければならない。ハレルヤ。

ルカ 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
 6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
 6:14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
 6:15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
 6:16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
 6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

 

 

イエス様のもとには、多くの人たちが集っていた。

病に苦しんでいた人、悪霊に取りつかれていた人たちや、言われのない差別や迫害に苦しんでいた人たちも大勢いたことであろう。

イエス様は彼らを優しく受け入れ、癒しと慰めを与えておられた。

彼らは決して強くも清くも立派でもなく、本当に神の救いを必要としていた人たちである。

そして、イエス様の弟子となった人たちも、とりたてて有力な人であるとか、知識人といった感じではなく、漁師など、ごく普通の人たちであった。

何も特別な能力があったわけでもなく、選ばれる理由があったわけでもない。

ただ、救いを必要としている人たちをお選びになった。

私たちも、決して優れた人であるとか、清らかな心や愛の心を持っていたから選ばれたわけでもあるまい。

むしろ反対で、汚れた人、弱く、傷ついた人たちであったからこそ、イエス様の救いを受けとめることができたのだろう。

救われた人が喜びに変えられることはあるだろう。

けれども、必要以上に清さを求めたり、ある日突然、神様のために何でもできるような優れた人になるわけでもないだろう。

あくまで、弱い人、傷ついた人であった。

それでもイエス様は、私たちを生かして下さるのである。

それで十分ではないだろうか。

イエス様によって救われた人のあり方を勘違いしないで、救われたことの喜びに生きるものとならせていただきたいものである。