インドでは、臨終を迎える人を囲んで聖者の名前を唱える慣習があります。
その人が意識がなくても聖者の名前を唱えると必ず救いの光を来ることを長い経験から知っているのです。まさに五井先生もそのことをおっしゃっています。「かならず私を呼びなさい!五井先生と想いなさい!」と事あるごとにおっっしゃておられました。
これが宗教と修養の大きな違い、またスピリチュアリズムとの違いだと思います。
宗教の核心はその救済力なのです。宗教では理論よりも「信」「信頼」が大切です。
100年前の今日、五井先生という肉体がこの世に生まれてくださったことにより、神界への扉が開かれ、多くの人が救われてゆきました。私も五井先生を通してこの大宇宙、大生命、大自然の叡智、神の愛を信ずることができました。
また、いつ死んでも「五井先生!」とお呼びすればかならず導かれ、安住の地で働けるというこの安心感。 五井先生ありがとうございます。
「明るい心」より
いつでもあちら(霊界)へゆく時には引導渡します。危い、往きそうだ、と思ったら「先生!」と想いなさい。
肉体の私に会わなくとも、神体の私が行って引導を渡します。私を本当に信じて下さった方は、必ず成仏するのです。成仏とは仏に成ること、仏に成るということは解脱するという意味です。成仏までいかなくとも、要するに安らかに往きます。往くべきところに往き、往生します。ところが大体、死ぬ時往生していないんです。往生というのは生れに往くんです。生れに往かないで、みんな本当に死んじゃうんです。どういうことかというと、自分の想いの中に巻きこまれたままなの。死にますと一度は眠ってしまうんです。
肉体から幽体が離脱します。霊魂を乗せて離れて行く。霊線というのがあって肉体と魂をつないでいる。それが切れちゃうと死ということになる。
想いが暗い人やみじめな想いの人は、そのままみじめな想いの中、暗い想いの中につつまれちゃって地獄へ行っちゃうんですよ。俗によい人だといわれている人が案外、悪い処へ往ってる場合もある。何故かというと、心が明るくないから。暗いということは神さまから遠いんです。神の子である人間が暗くあろう道理がない。神さまは明るい。明るい光なんだ。光の子だから暗いわけがない。暗いということは業なんです。だから暗いままで往くと暗い処へ往っちゃうんです。
ところがこちらから光を送りますと、亡くなった瞬間に光がバーッと入って、ちゃんと守護霊がつなげてくれるんです。そうすると守護霊がちゃんと案内してくれる。
日頃は暗い想いの人であっても、暗い想いがヒューッと払われて守護霊とつながって、そこで守護霊さんの行く霊界へちゃんといけるんです。
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on earth