三国志好き、曹操好き、メイ吉です。

魏の番です。夏侯淵ですね。夏侯惇の従弟です。曹操の縁者として、やはり、挙兵時から曹操に従っています。

急襲を得意とすることから、騎馬戦にも巧みだったのでしょう。しかし、夏侯淵といえば、特筆すべきは弓術です。銅雀台完成時に、弓術を披露するためにわざわざ、并州の司令官だった彼が呼ばれています。魏で随一だった、所以でしょう。挙兵後、曹操の命ずるままに各地を転戦、太守として統治。官渡大戦では、自軍の補給線の防備に当たっています。大戦の終息とともに、河北に転戦。南征が発せられるや、従軍。赤壁の戦いでは江陵の軍を率いて、本陣のある烏林を支援。江陵に曹仁が就くと、曹操とともに譙に向かい、孫権軍撤退の後の揚州鎮撫の先陣となります。こう書いただけで、すごい戦歴ですね。曹操が、真っ先に司令官の役割を任じたにもわかります。并州の乱を鎮定し、銅雀台に寄って、その足で漢中討伐の先陣を命じられます。勿論、これは涼州の馬超を刺激する一手でした。馬超が叛旗を翻し、関中を支配すると、弘農にて対峙。曹操本軍を待ち、先陣から中軍に配置をかわり、遠征軍の兵站線を構築。その後の渭水の戦いで、成宜を射殺。馬超・韓遂が敗走すると、長安に赴任した張既とともに、涼州に進出。張郃・徐晃を配下に置き、関中の司令官になります。その後、再起した馬超を追撃、漢中に追いやり、韓遂も攻撃し一掃。涼州を完全に支配下に収めます。常に前線にあり、軍を一任される者として、完成されてますね。そして、曹操の漢中討伐に加わり、統治体制が定まると漢中に留めおかれます。この時、曹操が夏侯淵に「功を焦って、短気に判断を誤るな」とかなんとか言ったと演義は言ってますが、これまでの夏侯淵の功績を考えれば、こんな言葉は主君としてあるまじきことでしょう。侮辱されたとして、憤死しててもおかしくありませんw単に、定軍山の負けを予定しての言葉で、演義って馬鹿ですね。ちなみに、夏侯淵は漢中一帯の統治をまかされており、演義の言うような定軍山の一将ではありません。劉備が漢中攻略に乗り出すと、曹操はまず曹洪に5万を与え、夏侯淵を支援。この軍に曹休・郭淮らが、加わっています。対劉備戦の詳細は、法正伝に譲りましょう。ともかく、定軍山に篭城となった夏侯淵は、曹操の援軍を待つことになります。北の陽平関は既に劉備に抑えられており、にっちもさっちもいかない状態なわけですね。ここで、法正に揺さぶられた夏侯淵は、援軍に自ら突出したところを黄忠に斬られます。どちらも、軍随一の弓の名手ってとこが、運命的ですね。

夏侯淵は、不覚を取ったと言うよりも、法正が巧妙だったのでしょう。南鄭の平地で決戦、といきたかったところでしょうが、曹操自身が軍を率いてきたのなら待つよりなかったのでしょう。その後、郭淮・張郃に指揮された夏侯淵の軍が南鄭を固く守って、曹操を待ったという事実からも夏侯淵の性格を緻密に読まれた結果、討ち取られたものと解釈できます。蜀側から見れば、夏侯淵自身の命自体に大きな意味があった、ということです。曹操以下、縁者であり、挙兵時代からの同僚であった者たちの悲しみは、量り知れないものがあったでしょう。蜀で言えば、関羽の死に匹敵するのではないでしょうか?でも、曹操は状況が不利になると関中の防御を固めて撤退します。そのあたり、クールで後に復仇戦も仕掛けていません。ていうか、漢中戦のあと、関羽の北上があって、それどころじゃなかったのかもwその後、曹操死んじゃうしw曹丕は、軍才で父を超えられないしw夏侯淵、カワイソスw

ではでは^^メイ吉でした。(`・ω・´)ノ チャオ!