映画『モンガに散る』のロケ地巡りについて書いておりますが、この映画の監督鈕承澤(ニウ・チェンザー)、愛称"豆導"について触れないわけにはいけません。

 

※2011年の台北で見つけたユニクロの看板の鈕承澤監督

 

私は彼の監督作品が好きで、多くの作品を見ています。

新作も楽しみにしていました。

でもその新作『跑馬』の撮影中に女性スタッフへの性的暴行事件を起こし、現在は花蓮で服役中です。

 

鈕承澤監督の行為は許し難い事です。

被害者が映画スタッフだったという事は、性的暴行の裏にはパワハラ的な圧力もあったのではないかと想像します。その立場で訴え出ることへの恐怖も大きかったはずです。

この世の中は、性被害を受けたと声をあげる女性に対してなぜだかバッシングが起こるという、おかしな世の中です。(空き巣に入られたとか、車が当て逃げされたとかを訴え出てもバッシングは起きないのに……)

 

私はハリウッドから始まった#MeeToo運動を支持しています。

支持しているのですが、その反面心の中では(本当にそんなにクリーンにできるのだろうか?クリーンにしてしまえるだろうか?)という自問自答がグルグルと巡っています。

 

人が働く職場としては、是非とも健全であって欲しい。

でも映画作品や作品の内容が健全なものばかりを扱っていたら?自分はどう感じるだろうか?きっと、つまらないでしょう。

人間や社会に内包されている「汚さ」だとか「不公平」「嫉妬」「犯罪」等をリアルに描く映画作品に触れられたからこそ自分は救われたし、そこが映画が好きな所以でもある。

 

健全な撮影環境から生み出される善悪・陰陽・高低・左右が織り交ぜられた映画作品が理想形でしょうか?そうなのかも知れません。

でも、健全な世界しか経験していない監督・スタッフ・俳優陣で人間の汚さや嫉妬をえぐり出すような深みのある作品が撮れるのだろうか?

 

じゃあ映画人は不健全であるべきなの?

そんな訳ない。

じゃあ健全な人ばっかりで撮った映画が面白くなりそう?

期待薄い。

じゃあそこそこ不健全な人が撮ったそこそこの深みのある映画ならどう?

いや、それもイマイチ。

じゃあ結局自分は映画に何を求めている?

 

ずっとそんな堂々巡りをしている。

答えはまだ出ない。