今回の現代アート巡りで、唯一、多少饒舌になれるだろうテーマ展だった。笑
「櫻坂46」(旧欅坂46)のメイキング展「新せ界」。



 
筆者は、「櫻坂46」(旧欅坂46)のファンではないが、ドルヲタとして、(現在の櫻坂ではなく)旧欅坂のほうは、作品やグループではなく、(どちらかというとスキャンダルや炎上騒動寄りの)「動向」を少なからずウォッチしていたことがある。w
作品自体は、デビュー作の「サイレントマジョリティー」以外は、特段惹かれたものはない。
(が、ドキュメンタリーの「僕たちの嘘と真実」は観た。w そうした動向の「裏事情」についてメン自身がどのように語るのか、に興味があったのだ)
 
展示には、当然だが、ファンと思しきティーン周辺の若者たちしかほぼ見当たらない。
なぜ筆者にとって、旧欅坂は気になる存在だったのか?
先ほども述べた通り、筆者自身は、その作品や作品世界自体には、ほぼ興味がない。
 
にもかかわらず、(ファンではなく)一部の「業界人」が、「アートだ」と評価しているという「界隈」が成立しているらしいこと、そのことが気にかかっていたのだ。
本当に旧欅坂は「アート」なのだろうか?何を以て、その手の「業界人」はそれを「アート」だと「信ずる」のだろうか?
概略、そのような課題感を引っ提げて、展示に臨んだのだ。
(今回のアート巡りでは唯一、最も「明確なテーマ」だったかもしれない。w)
 
一応、筆者なりの「結論」を見出すことが出来た、と考えている。
この日この展示が、「現代アート」を巡った終着駅であったことも、結論を出す大きな手引きになった。
 
旧欅坂46は、最新のPVやライブ演出技術を駆使した「現代型群舞」だ。
それは、「自分たちで『これはアートだ』と叫ぶ、新手の(信者誘導型)アイドルエンタメ」という全くの新境地を切り開いたが、その作品や作品世界自体は、(そうした新手のエンタメではあっても)「アートではない」
しかし、逆説的にだが、そのパフォーマーの未熟さ・幼稚さ故の炎上騒動から生まれる「論争性」(=「アートなのか、ビジネス(単なるアイドルエンタメ)なのか?」)にのみ、「アートとしての性質」が認められるのだ。
 
※「現代型群舞」だと気づけたのは、「nobody's fault」の、スカーフを被っている演出が、バレエの「ヴィリ」の演出(皆でスカーフを被って「幽霊」を演出)を恐らくトレースしたものだということに、偶然気づいたからだ。最近バレエに多少の興味を持っていることが幸いした。
 
 
旧欅坂46では、信者たちにより、特にアイコンとされた数名のパフォーマーがいた(基本的には皆既に卒業?脱退?している)。
パフォーマーの本質は、「役者」、それも大人たちの振り付けに随う忠実な「俳優・演者」に過ぎない。
が、(「仕事をきちんとこなさない・こなせない」といった)未熟さ・幼稚さ(=「厨二病」)故に、初めて独自の「キャラクター」を打ち出し、それ故に社会的に炎上することが出来た。
彼女たち自身は、決して「アーティスト」ではない。
固有独自の表現世界がある訳ではなく、本質的には、大人たちの演出に随うだけだからだ。
(無論この先、彼女たち自身が、新手の作品や作品世界を独自に作り出していけたら、初めて「アーティスト」としての一歩を踏み出していく可能性はある。それを否定しているわけではない)
 
なぜ、上記のような「論争性」にのみ「アートとしての性質」を認められるのか?
繰返しだが、作品や作品世界自体は、大人たちが様々な技術を駆使して作り出したもので、メンバーたちはその演者に過ぎず、(いかに一部のヲタクたちが「アートだ」と叫ぼうが、それは大人の演出に乗せられている、または一部メンに熱狂していることを例証しているに過ぎず)新手の「アイドルエンタメ」として成功できたに過ぎない。
が、大人たちの生み出した「純粋なプロレス」でなかったのは、そしてそれ故に炎上し「論争」を生み出し得たのは、まさに、「メンバーの未熟さ・幼稚さ」だったのだ。
そして、メン大勢の脱退?卒業?を招いたのは、まさにメンが「大人のおもちゃ」にされた証拠ではないのか。
そうした、極めて社会的にアクチュアルな(いわば「劇場型」)論争を招いたこと、そこにのみ「アート性」を認められるのである。
 
 
ただ、(もしかしたら世界では他にもそうした事例もあるかもしれないが)最新のテクノロジーを駆使した「現代型群舞」には、それはそれとして、(バレエ同様に)「アート」としての可能性はあるだろう。
間違いなく、櫻坂46(旧欅坂46)は、その「プロトタイプ」を示した。
が、その成功自体は、「アート」としてではなく、(マイナス面も込みの)「劇場型エンタメ」としてであった、ということだ。
今後は、ビジネスからある程度ニュートラルな主体によっても追求されていくべきではなかろうか。
 
筆者がかほどに饒舌になれるのは、上のような「論争性」という「アート性」から由来するものだったのだ。