前回の記事で、今回の瀬戸内旅行で、日本の歴史の重要な本質に気づいたことを示唆した。
これについて、同じく気づいた自分自身の歴史観へのバイアスについてもセットで、前後半2部構成で書いてみる。
瀬戸内旅行は、車・船便・電車・高速バス・徒歩タクシーの組合せで、大雑把に、
1日目 呉→(とびしま街道経由)岡村港→(船便経由)今治港→日帰りでトンボ帰りし、岡村港→呉→広島
2日目 広島→宮島・厳島神社→広島市街→(高速バス)出雲
3日目 出雲大社→松江市内・宍道湖
4日目 (早朝のみ)出雲市街
となった。
(最初に書けよという話だが)
船も、岡村→今治以外に、宮島、宍道湖と、今回の旅行で計3度も乗船している。
筆者は、港町・離島・半島などをめぐるのが従来から好きなのだが、そこにはそこはかとないノスタルジーを感じるからだ。
今回は、それだけに止まらない、「日本史、日本の国家的成り立ちの本質」に気づいた。
それは、「海洋国家」として成り立ってきた(完了形)という点だ。
今でも車等の輸出機械が、重要な外貨獲得手段となっていることを考えると、依然「海洋国家」の側面が喪われたわけではない。
が、その側面が衰退しているのは間違いない。
それを、瀬戸内の様々な見聞で体感したのだ。
呉も今治も、造船で成り立ってきた地で、今なお生き残る産業でもある。
が、呉の大和ミュージアムというのは、むしろそうした「大艦」は、歴史、単なる観光へと封じ込められている象徴のように受け止められたのだ。
(「戦艦大和」建造時点で、航空機を用いた空戦登場により、既に「大艦巨砲主義」自体が時代遅れになっていることはある程度自覚されていた)
その一方で、今まで、そうした「海洋国家日本」というのは、頭でしか理解できてなかったことを、今回の瀬戸内旅行で体感したのだ。
それを知ったのは、宮島に渡った時のことだ。
宮島は、伝統的に、海洋戦の要衝として位置付けられてきて(だからこそ清盛により厳島神社が大規模に造営されたこと)、長州戦争時は、宮島の大願寺で講和会談がなされたことと、そして、日清戦争寺には広島に大本営が構えられたことが、一本線で結びついた。
さらに今度は、山陰出雲も、大和王権以前から、陸路山陽地方以外に、朝鮮半島や、越前地方と海路で結びついたことが繁栄の根源だったことを知った。
「海路でのネットワーク」が、時を超えて繋がっていくのを感じた。
(瑞賢の西廻海運の意味合いも、初めて理解できた)
「海運・舟運は、近世まではメジャーだった」ことは、頭で知識としては知っていても、それが、体に落とし込まれないと「ナットク」感は得られない。
今回の旅行は、そうした体感を初めて得られた、特殊な不思議な旅だった。