縄文時代の始まりは16000年前と言われている。その根拠は青森県の大平山元 I 遺跡から出土した土器がその頃であり、土器があるということは定住を始めた可能性が高いため、ここを縄文時代の起点としている。ただ、16000年前の日本は氷河期であり、人口はまだ少なく土器の出土例もほとんどなく、縄文時代をどこからにするかはまだ議論が重ねられているようにようだ。
国立歴史民族博物館の展示によれば、縄文時代の人口のピークは26万人。その多くが東側に住んでいた。そしてこの人口は8万人まで減り、その頃に西日本を中心に弥生人が大量移住してきた。西日本は人口が少なかったから移住は容易だっただろう。
縄文に興味を持ったきっかけは長野県の尖石縄文考古館に帰省のついでに寄ってみたことから。諏訪地方が黒曜石の産地だということは知っていたけど、土器が土偶の出土がとても多く、また完成度の高いものが多いこと知ったのだ。
これが諏訪地方の黒曜石。縄文時代どころか旧石器時代からここの黒曜石は全国に流通していた。ちなみに黒曜石の最高級ブランドは伊豆諸島の新津島でとれたものらしい。太古の昔から黒曜石を取りに船を作って渡っていたのだから驚きだ。
特定の地域でしか採れないものとしては糸魚川の翡翠、久慈の琥珀が有名で、これらも貴重品として全国で流通していた。弥生時代以降に大量に出土する勾玉は縄文文化が起源なのだ。
青森の是川縄文館で見た漆塗りの土器には驚いた。漆が塗られていれば近代の工芸品と見分けがつかない。大陸から弥生式が来なくても独自の進化を遂げていたのだ。
そういえば土偶といえばこれを連想する人も多いだろう。これは遮光器土偶と言って、東北でよく見つかるタイプだ。最も有名な亀ヶ岡遺跡の土偶は東京国立博物館に展示されている。ちなみ遮光器とはエスキモーが雪の照り返しで目を痛めるのを防止するためにかけているメガネ(隙間から見る)のこと。もしかしたら共通の文化圏だったのかも知れないね。
八戸の是川遺跡のあと、日本で最も大規模な縄文遺跡である三内丸山遺跡へ向かった。ここには最大で500人は住んでいたのではないかと言われており、栗の木の栽培の跡なども見つかっているらしい。写真は巨大な建物を復元したもの。
こちらは巨大な柱の跡を復元したもの。本当の姿は全くわからないけど、6本の巨木が立っていたのは確かなのだ。縄文時代の定義を揺るがす文明があった可能性が高い。新潟の博物館で見たのだけど、縄文時代の巨木信仰はその後も続き、諏訪の御柱祭もその一つだと言われているとか。日本固有の宗教である神道は縄文由来だとしたらロマンがあるね。
三内丸山遺跡から見つかった縄文のポシェット。縄文時代の有機物が見つかるのはとても珍しいのです。服や小道具を編んでいくっていたらしいが、とても時間がかかったそう。
青森でよく出土する十字架の土偶。山梨〜長野で多く見られる土偶とは全く見た目が違いますね。
縄文時代に最も人口が多かった関東の土偶も個性的。よく見ると仮面をつけているようにも見える。縄文時代の服飾品を見ると、ピアスやら勾玉やらでジャラジャラしていたらしい。また、土偶に必ず模様があることから、全身に刺青が入っていた可能性も高いらしい。縄文人めちゃくちゃ派手だったのね・・・。
これは函館縄文文化交流センターの展示。イケてる。
急須も大量に見つかっている。これでお茶を飲んでいたとしたら現代と変わらないよね。
千葉県の加曽利貝塚へ。日本一の貝塚跡で剥き出しになった大量の貝塚を見学できる。ちょっと臭うのが生々しくて良い。縄文時代は今よりも温暖な時期が長く、東京湾は今よりも広くリアス式だった。そのため魚介類が多く採れたようで、このような貝塚が無数に見つかる。これだけの貝をここだけで消費していたとは考えにくく、ここで貝を大量に加工して、内陸の村と交易をしていたのではないかと言われる。海には海産物の工場、山には石器の工場、驚くほどに文明的なのだ。
最後に向かったのは十日町市博物館。
このあたりで見つかる土器は火炎型土器と呼ばれ、炎が燃え上がる様を土器で表現しており縄文芸術の頂点と言っても過言ではない。岡本太郎はこれを見て、「なんだこれは!」と叫んだという。笹山遺跡から出土した57点の土器が国宝に指定されている。
翌日行った長岡市立科学博物館は縄文の展示が素晴らしい。特にジオラマが膨大で、これだけで記事が書けるほどだ。
その近くの馬高縄文館も必ず訪れて欲しい。膨大な数の火炎型土器が見れる。
縄文文化の研究は博物館への訪問が中心だったけど、どこも展示に特色があって本当に面白い。小さな博物館でもレア土偶がいたりと探索する楽しみがある。引き続き地方の博物館巡りを継続したいと思う。
















