いろいろな古墳へ行ってみて、その変遷が少しずつ分かってきたので復習してみる。

 

まずは9つの古墳が残るさきたま古墳へ。埼玉県名の発祥でもある。

 

 

 

稲荷山古墳で出土した鉄剣に金で文字が刻まれていた。日本最古の文字とも言われている。このあたりを支配する豪族が471年に天皇から与えられたものらしい。

 

関東の古墳は関東各地に点在している。特に群馬と千葉は多い。関東はそれぞれの地にその地域を支配する豪族がおり、その勢力を競っていた。その豪族も関西のヤマト王権には太刀打ちできなかったようで、その支配下となることで地域での基盤をより強固にした。また、ヤマト政権も関東の豪族を懐柔するため、彼らにいろいろな特権を与えた。その一つが天皇のみに許された巨大な前方後円墳の建設である。結果、関東には天皇級の巨大な古墳がいくつもある。また古墳から出土した埴輪も古墳の規模に比例して素晴らしいものがある。

 

群馬の保渡田古墳。よく整備されている。

 

 

ヤマト王権のあった関西へ行ってみると古墳の規模はさらに上を行く。

 

仁徳天皇陵(大山古墳)はその頂点で、全長なんと525メートル。

大き過ぎて歩いて一周する気にもならない。

 

 

大阪府立近つ飛鳥博物館には仁徳天皇陵の模型があったが、大き過ぎてディティールが伝わらない・・・。

 

 

卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳へも行ってみたが、こちらはほとんど整備されていなかった。箸墓古墳周辺には関西最古級の神殿の跡や儀式の跡が見つかっているらしい。しかし卑弥呼のもと断定できるものは一切見つかっていない。

 

関西の有力な古墳はほぼ宮内庁によって天皇陵の指定され、立ち入りも発掘もできない。しかしこの今城塚古墳は天皇陵として認定されていなかったため、大規模な発掘調査がされた。その結果、巨大な古墳と多くの埴輪が出土し、明らかに天皇級の古墳であることが判明。継体天皇の墓ではないかと言われている。この復元された埴輪の配置は天皇の何らかの儀式を表しており、天皇であることの正当性を訴える必要があったようである。

 

 

明日香村の牽牛子塚古墳、リニューアルしたということで訪れてみた。なんとこれ、当時の姿に復元したものらしい。古墳時代も末期になると仏教の伝来とともに小さくなり、代わって石室はより凝ったものが造られた。