幕末の若きサムライが見た中国

第10回「攘夷の無意味さ」を実感したに違いない日本の若侍

名倉予何人の『海外日録』を読み解く

2018/06/16 樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)

https://wedge.ismedia.jp/articles/print/13125

 名倉予何人「イナタ」と読む。生年不詳。浜松藩儒官。昌平黌で学び、後に洋学、兵学を修める。維新の際には浜松藩主の参謀役を務め、明治政府では外務大佑として清国貿易に携わった。退官後には台湾貿易を目指したが失敗。根岸に漢学塾を開き、明治34(1901)年に没している。

 名倉が残した毛筆和綴じ本の『海外日録』の表紙には、「四月二十九日発長崎 七月十三日帰埼 上海在留五十九日」と墨痕鮮やかに記されている。表紙を繰ると、千歳丸による上海行きは「寛永以前ノ朱章船」の復活だが、幕府役人が公式に「入唐」するは室町幕府以来のことであり、誰もがこの航海を「一大愉快」と痛感していると記す。彼ら幕末の若者の押さえようにも押さえられない胸の高鳴りが伝わって来るようだ。

■ニューヨークを超える上海の賑わい

 『海外日録』は、「四月廿七日 快晴 午後官吏大小及ヒ従僕総計五十一名斉シク官船 船名千歳丸 ニ乗ス」るところから書き出されている。操船担当のイギリス人15人を含め全員が乗り込んだが船中は相当にごった返していた。出航準備を整え29日早朝に長崎港を離れる。途中、暴風雨に遭いながらも6日後に大陸の山々を望む。「舟中ノ人喜色掬スヘシ」というから、船中が大いに沸き返ったに違いない。

 やがて「砲臺並列ス」る両岸を見やりながら上海側の派遣した蒸気船に導かれ、係留地点に向かう。数多くの軍艦が停泊しているが、殊に「英船最多シ」。さすがに「支那諸港中第一繁昌ナリ所」だけあって「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」。一行の中に万延元(1860)年の新見豊前守を正使とする遣米使節に加わって訪米した者がいて、「ワシントン〇ニューヱロク〇ニモ遥カニ勝リタル繁昌ナリト」と口にする。彼の目には、上海はワシントンはおろかニューヨークよりも繁華に映ったのだろう。

 上海上陸の後、中国人の先導で一行が世話になるオランダ商館に向かう。じつは当時、日清両国(江戸幕府と清国政府)は国交を結んでなかったため、清国当局は日清両国と国交のあったオランダを経由しての交渉を幕府役人に求めた。そこで上海での正式交渉は全てオランダ商館の仲介を必要としたのである。上海滞在中の宿舎としてフランス商館を利用しているが、江戸幕府に対するフランスの気遣いが感じられる。

 

*近代的な意味での『外交』を理解していなかった、とでも言うべきだろうか。出島でオランダとシナの船は交易ができたと思うのだが。シナの方が先に列強国との間に近代的な外交を展開していたといえる。アヘン戦争から20年以上たっていた。

 

 上海上陸数日後、宿舎に留まっていると多くの中国人がやって来ただけでなく、筆談で「琉球人か」と問い質してきた。琉球は上海との間で往来をしていたことの証左とも考えられる。また「長崎横濱等ニ曾テ来リシ唐人」が近寄ってきて、「吾邦語ヲ以テ『アナタイツキタ』」などと狎れなれしく声を掛けてきた。街頭を歩けば多くの中国人からジロジロと眺められ、「殆ド眩暈ヲ覚」える。それほどまでに日本人は街中で珍しがられたのだろう。

 埠頭を歩く。「数萬ノ船舶江中ニ泊シ」、上海の「盛ナル吾浪華ノ比ニ非ラス」。上海は「吾浪華」、つまり天下の台所で知られた大阪なんぞ比較にならないほどに大きくて賑わっている。名倉の仕える浜松藩より日本は広く、日本より世界はもっと広い。広い世界から日本を見直すべし、である。

貪欲に情報を得ようと手を尽くす日本の若侍

 上海到着から1週間ほどが過ぎた5月15日頃だと思われるが、この日から自由外出が許され「上海中ヲ徘徊」することができるようになった。先ず本屋に立ち寄り「新出ノ兵書」を手にした後、街をぶらつく。太平天国軍を防備するために厳重警戒する「英人ノ駐防ノ所」に出くわした。川辺では船で逃れて来た数多くの難民を目にして愕然とする。散策中も常に無数の好奇の目に囲まれる。街では流しの芸人、屋台の骨董屋、人相見やら易者なども商売に励むなど賑やかで、「其光景宛モ吾江戸ニ異ナラサルナリ」と。市井の生活ぶりは「吾江戸」とさほど違ってはいないようだ。

 某日、清国人宅を訪れて帰路に出会った英国人に酒に誘われ、「酒店」に立ち寄った。言葉は通じないが、「ジヤツハンジヤツハンジヤツハント呼テ」極めて親しく応対してくれた。かくて名倉は、どうやら西洋人は日本人を「ジヤツハン或はヤツハント呼フモノ」らしいと書き留める。

 名倉を始め若者たちは上海の内外を「徘徊」するのはもちろんだが、滞在中に多くの清国人との交流を重ねる。いったい誰が紹介したのか。それとも自ら進んで探し当てたのか。興味深い点だ。清国人と知り合った経緯についての詳細な記録が残されていないことを恨むが、ともかくも当時の清国を取り巻く内外情報――それは、とりもなおさずに日本を繞る国際情勢ということになるわけだ――を得ようと八方手を尽くしている様子が覗える。貪欲なまでに清国人の懷に飛び込んで行った。

 名倉が交流を重ねたうちの1人である陳汝欽が宿舎に訪ねてきたが、肝心の名倉は不在だった。そこで「同寓ノ士高杉晋作」が応対することになる。高杉が「兄何故尋名倉来」と筆談で問うと、「私は上海の駐防を担当し職務内容が同じ名倉と今朝、時事問題を論じたのですがすっかり意気投合しました。そこで、こうして訪ね来た次第です」と、陳が応える。すると高杉は「僕も時事問題を談ずることを好みますよ。さて姓名、ご住所を記しては下さらぬか」。すると陳は名前と住所をすらすらと記した後、「請問君姓名在貴邦所司何職(お名前とお国での役職は)」と問い返す。そこで高杉は、「僕姓源名春風通称高杉晋作讀書且好武事常欽慕貴邦奇士王守仁為人一個書生而已矣(姓は源で名は春風。通称は高杉晋作でござる。書を読み武事を好み、貴邦の奇士である王陽明を欽慕致し申す一介の書生に過ぎぬ)」と。すると陳が「妙極、妙極、妙極」と応じた。

 それはそうだろう。目の前に立った日本の若侍から、陽明学の創始者で、吉田松陰以下の多くの幕末の志士の五体に「忠義の志」を刻み付けた「貴邦奇士王守仁」こと王陽明(1472年~1529年)を「欽慕」する「一個書生」と自己紹介されたのだから、陳ならずともマトモな清国文人なら「妙極、妙極、妙極」と口にしたはず。この時、高杉は眦を決し力強く筆を動かしたものと想像したい。溢れんばかりの志を秘めた胸は、陳に正対していたはずだ。その時の高杉の胸の裡を推し量るに、不覚にも涙を流してしまいそうだ。あくは

 

*陽明学は日本では広く好まれた。このシナの儒学者が高杉と筆談して痛く喜んだことだろう。当時武士たちの知的レベルはかなりたかかったと言える。

 

 その翌日である。名倉は高杉に使いを頼んで『兵要錄』を陳汝欽に届けている。どうやら名倉が日本から持参した本らしいが、出国前後の慌ただしさの中で日本に置き忘れてきた部分があり全冊が揃ってはいなかった。そこで名倉は遺憾ながら残欠がありますが、「伏乞高評大批(伏してご好評・批判を望みます)」と記した手紙を高杉に託している。

 某日、小舟に乗って黄江を下り、7年前に広東人が開設し、今はアメリカ人の所有になっているドックを視察した後、「浦東ノ造船場ニ至ル」も、その規模・構造は「吾長崎ノ製鉄所ニ比スレハ遥カニ劣レリ」と。造船所と製鉄所を比較するのも奇妙な話だが、当時の長崎に設けられた製鉄所の自慢を忘れてはいない。

 幕府役人のお供で馬銓宅を訪問した時のことだ。大歓待を受け、「銓ト共ニ時事ヲ談ス」。余ほど長居をしたようで、気が付くと既に「斜日」。そこで宿舎に戻ることになるが、「本日雨甚シキヲ以テ道路泥濘深ク特ニ城裡ナレトモ僻地ニハ草第堆ク不潔ノ所アリテ歩履甚タ苦ム」と。「城裡ナレトモ僻地」とは街中の貧民街を指すようにも思われるが、ぬかるんだ道路に足を取られ、山のように積もったゴミに行く手を遮られる状態。今風にいうなら当時の上海の都市インフラ環境は劣悪の極みといった状態だったわけだ。

 街を「徘徊」している折に偶然に馬銓に出会った。ちょうど正午だったこともあり、昼食を御馳走になる。「銓余カ為ニ牛豚鶏肉等ノ盛饌ヲ設ケ此皆余カ口ニ適セサル処ナレトモ強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」った。淡白な味で育った日本人の名倉である。矢張り中国式の「牛豚鶏肉等ノ盛饌」には面食らい、箸の動きもぎこちなかったろう。肉料理を強引に喉の奥に押し込み眼を白黒させながら会話を続ける。「強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」の数語に名倉の苦衷が察せられ、何やら微笑ましくも思える。

清国のダメさ加減を象徴する「ナマクラ」

 月が改まった6月の某日、「獨行」し雑沓する寺院を経て次に向かった文廟では、数人の「英夷(イギリス兵)」から呼び止められた。孔子像はすでに他所に移されイギリス軍の野戦病院となっていたらしい。「各堂ノ獰風腥キニ堪へス」というから、傷病兵が溢れていたのだろう。太平天国軍との戦いの激しさが窺われるようだ。かくて名倉は、中華文明の根幹である聖人・孔子を祀る文廟の変貌からに「イカニモ支那ノ衰世」を感じ取っている。

 「英虜ノ頭目」――文廟駐屯のイギリス軍司令官だろう――が盛んに酒を勧めるから、彼らの「鎗砲白刃」の中を「余傲然トシテ」飲み干す。身振り手振りでのボディーランゲージとアルコールが、英語の出来ない名倉とイギリス兵の間をグッと近づけたのだろう。

 馬銓宅を訪れた折りのことだが、彼が佩刀と槍が誇示した。そこで名倉が手にしてみる。刀は「長僅ニ一尺五六寸鈍刀ト覚ユ」。槍の「刃ノ長五六寸是亦釘ヲ打ノヘタルニ似タリ」といった有様。「鈍刀」に加え「釘ヲ打」ち延べたような槍だ。馬が自慢の刀と槍が清国のダメさ加減を象徴している。おそらく名倉は腹の中で「こんなナマクラな刀と槍では、戦にはなりもうさん」と思ったに違いない。

 郊外を「徘徊」し農村の様子を観察するが、そこに集まる多くの難民の悲惨な生活ぶり、さらには立派な門構えの邸宅でも屋敷内を田畑に設えるなどの「乱世の光景」に接し慄然とし憐れみを覚える。

■それでも「用兵の妙」には感嘆せざるを得ない

 上海上陸から40日ほどが過ぎた頃、念願だった清国軍の操練視察が実現した。操練には余ほど興味があったと見えて詳細に記録した後、講評を綴っている。

 「余カ同来ノ人」は操練を見て、「之ヲ大ニ誹謗スルモノアリ是ハ全ク兵法ヲ夢見セルモノノ談ト云フヘシ」。以下、延々と「同来ノ人」の「誹謗」の根拠がない点を次のように論じている。

 ――だいたい今回の同行者の中でも「兵法ヲ熟知スル者多カラジ」。そのうえ我が国では長い泰平の世に馴れてしまい、兵法者といったところで実戦を経験していない。最近の戦争の実態を知らないから、日本の鋭い刀槍と西洋の優れた火器さえあれば無敵だなどと口にできるのだ。

 こういった連中の目には、清国軍の「操練」は拙劣の極みに映るだろう。だいいち刀も槍もナマクラで使い物にならず、火器も老朽化しているから「誹謗スル」ことになる。だが、清国軍は太平天国軍相手の実戦を積んでいる。その用兵の妙には感嘆せざるをえない。しかも連日斥候を遣って敵情を探っているではないか。こういったことは「本朝ニ在テ希有ノ事ナレハ能々眼ヲ注キ心ヲ潜メテ玩索スヘキニ非スヤ」。武士とはいえ太平の世に慣れ、戦から離れて長いのだから、やはり実戦を重ねている清国の軍隊操練から何か学ぶべき点があるはず。虚心坦懐に「玩索スヘキ」だ。

 アヘン戦争以来、「洋虜(西欧)」との戦争に負け続けているが、清国軍は伝統的な「陣法兵制」を貫き「虜風(西欧方式)」の真似をしてはいない。こういう態度を愚とも狂とも評するかも知れないが、その志は高く評価すべきだ。だから「支那ノ弱兵」が「旧来ノ拙キ火器ヲ用ユルタルモ」、西洋軍に勝利することだって考えられないことはないだろうに。

 「本朝ノ武勇タクマシキ兵」に西欧の近代兵器と海軍を備えることができたら、まさに「虎ニ翼ヲ添ユルモノ」のように無敵であり、西欧の軍隊など恐れるに足らない。だが西欧の兵法を真似て「気節ヲ失」ってしまってはダメだ。

 清国軍は兵を動かし陣形を整えるのにカネや太鼓を使っているが、「凡ソ号令約束ハ本朝ノ操練ニ比スレハ甚タ簡易ナル様ニ覚ヘタリ是皆実地ヲ施コス処ノ真ノ操練ナレハ余レ敢テ之ヲ非トセサルナリ」。やはり実戦を踏んだ軍隊である。戦場での伝達方法は単純明快でなければならず、これこそ真の操練というものだろう――

 実戦は遥かな昔である。江戸の長い泰平の世を謳歌し備えを怠りながら、「支那ノ弱兵」ぶりを「誹謗」することは愚なことだ。独りよがりの考えを強く諌める名倉は、大きな時代状況の中に身を置いて客観視すべし、と力説している

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*名倉の物事を見るに客観的態度、このような思考は現代では当たり前に思うかもしれないが、やはり優れていた見識を持つ者と言わざるをえない。同じ儒教の影響を受けながら韓国の反日に見る論法、またシナの外交に見る強弁は、まったく異なるもので、自らの立場を是として他者を否とする態度・論法と比較してみれば、日本が西欧的論理論法に近いことが判るだろう。日本の近代化は、一地方藩士であっても、このような見方ができるところに、その源泉があると言える。

 

「攘夷の無意味さ」を実感したのかもしれない

 念願の操練の見学を果たした翌日、思いがけずに帰国の沙汰が下る。天津やら寧波など外国に向って次々に開かれる港に立ち寄ってから帰国という当初の計画は反故になり、上海から真っ直ぐに帰国となった。そこで「有志ノ士皆失望ニ堪ヘス長太息ヲナスモノアリ」。「長太息ヲナスモノ」の中には、高杉や五代も含まれていたのだろう。だが、命令が下った以上は従わざるを得ない。そこで名倉は帰国も詮ないことと諦め、上海で知遇を得た友人への別れの挨拶に出掛けるのだが、幕府役人から注意――帰国後に「支那ヨリ書翰」が送られてきて、それが長崎やら横浜で幕府当局者に察知された場合、思いがけずに「大ナル禍」が出来するかも知れない。だから「支那人ノ内ニ如何ナル知己ノ出来スルトモ以後書翰ノ往来」は「嚴ニ戒ムヘシ」――が下された。そこで名倉は将来の不測の事態に備え、友情の印にと揮毫を贈ってくれた友人に次のような文章を残した。

 ――ご厚誼に対し、お礼の申は文章で意尽くし述べようもございません。御恵贈賜りました揮毫は帰国後に表装して室内に掛け、朝な夕なに眺めながら「一日三秋之情」を慰めたく思います。一旦お別れした後は最早再会の機会は期し難く恨みは増すことでしょう・・・。そして最後を、「弊邦有禁不許通信問干異域又不許受域外之信也犯禁之罪受禍不測是特以為憾頗大兄為國自愛以身報国片言不尽意頭与涙共垂六月念三日本辱交名倉敦再拝(せん。誠に遺憾に存じます。大兄におかれては御国のため自愛に努め、身をもって報国の道を歩まれんことを切に望みます。拙い我国では、書信にて外国の事情を尋ね、また外国からの書信を受け取ることは禁じられております。禁制に背いた場合に思いも掛けない罪過を受けることになるかもしれませませんが、首を垂れ別離の涙を流します。六月二十三日 ご厚情に深謝しつつ 名倉敦再拝」と結んだ――

 いつの時代でも役人は“前例と法令”に生きているということだろう。江戸の役人も同じだ。名倉を戒めた役人にしても職業上の責務であり、我が身を守るためだ。だから、それはそれで致し方ないこと。だが、それにしても当時、上海で日本人と清国人との間で、かくも深い付き合いがみられたとは。まさに奇跡の一瞬だったようにも思える。

 名倉は残り少ない上海を惜しむかのように川辺に立つ。「黄江ヲ一望ス晩涼風景最佳ナリ」。だが、悠長に日を送っているわけにはいかない。帰国準備である。「支那物産緒品ヲ官船ニ搬送吾輩之ヲ監ス」。「官船」である千歳丸にどんな品物が積み込まれたのか。同行した商人の松田屋半吉の書き残した『唐國渡海日記』によれば、石膏、氷砂糖、上白糖、水銀、大黄、甘草などが上海で購入されている。

 じつは長崎出発時は「支那有名ノ五港ヲハ巡暦」と謳っていたものの、結局は「上海ノミニテ回帆」で終わってしまった。この処置を名倉は「遺憾ナリ」と呟いているが、幕府の方針は最初から上海寄港のみでの帰国にあったようにも思える。

 帰国待ちのある小雨の日、「舟中同志ノ諸士ハ首ヲ聚ム」というから、四方山話にでも興じたのだろう。そこで名倉は今回の上海滞在で有益だったのは清国軍の軍営を見学したことだけだ。常に敵と対峙している形で進められる彼らの訓練は、日本では決して見ることができない。やはり清国軍のように実戦を想定した訓練が必要だと語るが、必ずしも全員が諸手を挙げて賛意を表したわけでもなさそうだ。

 それにしても長き太平に我を忘れた日本の侍が口角泡を飛ばして談じる紙の上の兵法ではなく、実戦で鍛えられた清国の戦いぶりに強く感心するが、名倉は西欧世界を知らない攘夷の無意味さを、はたして上海の地で実感したのだろうか。実戦知らずの兵法では、実戦で鍛えられ最新兵器を備えた西欧諸国軍には勝てない、と。やがて明治維新の偉業に向け尊皇攘夷から尊皇開国へ。日本は、まさにコペルニクス的大転を遂げる。

 7月6日に抜錨した千歳丸は揚子江を出て外洋へ。6日後の12日には「遥ニ五島ヲ看ル」。そして14日には長崎に帰港している。

 上海では自由な「徘徊」が可能だったことから、名倉は「支那ノ形勢事情十分ノ一」を探索できたことは「実ニ吾輩ノ幸」であったと総括する。だが、敢えてリスクを取ろうとしない「小成ニ安ンスルノ輩」が多く、「支那有名ノ諸港」を探索するという当初の計画が取り止めになったのは残念至極と綴って『海外日録』の筆を擱いた。やはり名倉に「支那ノ形勢事情十分ノ」九を探索させてやりたかったとも思う。

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明治維新に向けての動きにの背景に、このようにシナの実情を視察した経緯があり、それらが後に明治新政府で活躍していく。

やはり、その後の歴史の不幸は生ずるべくして生じてきたと思える。孫文の起こした辛亥革命を日本はシナの近代化として支援したにも科k触らず拘わらず、孫文自身が日本を敵視するに至る。孫文の「三民主義」自体が、近代への道を歩むには、至らないものがあったと言わざるを得ないのだが、人間の生き方を変える「革命的核心」が欠けていたと言える。結果として、「近代人」を生み出すことなく、権力の争奪戦で終わって行き、その先に再び専制王朝が名前を変えて現れたに過ぎない。

前回の項で、自国を外国人に守らせる清朝にのふがいなさ、自立心のなさに日本の若い武士たちは憤慨ししたのだが、まさにその自立の精神を生み出せずにいたことが現在のシナの「専制政治」と「人権」「自由」を奪われても、平然としている人民を作り出しているのだ。

なんら革命的なことは起きていないのだ。ただ汚い遅れたインフラが現代風になったけれ、一歩街を離れれば、昔ながらの後継の光景が展開する。以前よりは良いけど、環境破壊はその極みでもある。