釜山近代歴史館(旧:東洋拓殖株式會社)で釜山の歴史を知る | 舟水の世界ごゆるり街歩き

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               NHK教育番組「たんけんぼくのまち」で強烈な刺激を受け、小学校の頃から地理大好き人間。日々の散策からちょっとした世の中の宝箱を覗いて見ませんか?

東洋拓殖株式會社(とうようたくしょく、英名:Oriental Development Company)は日露戦争後の1908年に設立

され、1945年の第二次世界大戦の終結まで、京城府及び満州国、モンゴル、樺太、南洋諸島、ミクロネシアに

存在した大日本帝国の国策会社です。南満州鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏

内の植民地政策に関して特権的な利権を保有し、満鉄や東洋拓殖に勤めるということは、現在で例えると、

財閥系商社に勤めるサラリーマンと同じようなもので、花形の職場でもありました。

 

釜山には、現在でも当時の東洋拓殖株式会社釜山支店の建物が残っており、釜山近代歴史館として建物が

利用されています。歴史館の中では

 

①釜山の近代開港(1876年)から日本植民地時代の釜山

②日本が国策会社として設立した東洋拓殖株式會社

③米韓関係

 

などに関する展示がなされています。

 

特に明治期から大日本帝国が釜山をどのように開拓してきたかというのがよく分かる展示も多い為、

時間のある方は、釜山の街を観光するする前に歴史館で「この地区はこのような場所だったのか」

という気づきを得てから釜山の街を散策するとかなり有意義なものになります。

 

そんな釜山近代歴史館の様子をご紹介します。

 

 
 

(2017年12月30日撮影)

釜山近代歴史館 (旧東洋拓殖株式會社釜山支店)です。1929年に建てられた建物で築90年の歴史が

あります。日本人であればこの建物の外観を見て、明治期の日本の銀行っぽい建物だなぁ…と

直感的に感じるのではないでしょうか。

 

 

 
 
 

 

 

釜山近代歴史館 (旧東洋拓殖株式會社釜山支店) の場所です。

この地図に映っているエリアが当時、日本植民地時代の釜山中心市街地で、街には路面電車を

走らせていました。

 

 

 

 

 

 

(2017年12月30日撮影)

建物の顔ともなるコーナーは綺麗に仕上げられており、建築物を見るのが好きな人が喜びそうな建物です。

 

(2017年12月30日撮影)

オレンジ色の上着を着た人が立っているポイントが建物への入口です。

 

(2017年12月30日撮影)

入口は窓をぶち抜いて幹線道路の通りから入れるように改造されています。

青銅の屋根の部分には釜山近代歴史館とハングルで書かれているものと思われます。

 

(2017年12月30日撮影)

案内言語の序列が、中国語より先に日本語があります。これは一昔前の表記序列だと思います。

最近は、中国語が日本語より先という序列のような気がします。中の展示は、英語・中国語・日本語の順でした。

 

(2017年12月30日撮影)

エントランスにある案内板には建物の説明書きがあります。

 

(2017年12月30日撮影)

中に入ると1階部分に、1930年に撮影されたこの写真が大きく壁に展示されています。

建物の前の通りには路面電車が通り、対面には、「御料理仕出し」の看板が出ています。

韓国人はあまり理解できないかもしれませんが、これは昔よく見られた日本特有の光景だと思います。

東洋拓殖は国策企業であった為、ある意味役所のようなものでした。昔から日本の役所の近くには仕出し料理や

懐石料理を提供できるお店が、役所の需要を見込んでいくつかあったものです。今でも地方に行けばそういった

名残を目にすることが出来ます。この写真は日本人だからこそ理解できる一コマだと感じました。

 

(2017年12月30日撮影)

そして現在の姿です。東洋拓殖の建物はまさに、釜山の歴史の生き証人なのです。

 

 

ここからは展示されていた興味深い資料や写真をご紹介します。

 

(2017年12月30日撮影)

日本人が作成した、18世紀頃と思われる江戸時代の南浦洞界隈の地図です。現在のロッテモールが建つ場所

には元々小さな山がありました。釜山大橋付近には漁船が描かれています。チャガルチ市場のエリアには

「南濱」と書かれています。チャガルチとは朝鮮語で「砂利・小石」を意味します。この地図を見ると浜辺はまさに

チャガルチで描かれているではありませんか。そして現在の地下鉄はまさにそのチャガルチの真下を走っているの

です。現在の南浦洞からチャガルチへの大通りがまさに海岸線だったのです。また。龍頭山をぐるりと回って、

海に流れ出る川が描かれています。この川が埋め立てられて出来上がったのが南浦洞の観光スポットでもある

光復路です。そして、大型船が停泊している港は現在の釜山港湾局専用の港として使用されています。

この約300年前の一枚の地図とグーグルマップを見比べると本当に面白い歴史が見えてきます。

 

こちらも約300年前の釜山を描いたものです。ロッテモールの場所には山があり、奥には影島が浮かびます。

釜山を知るには倭館の歴史を知っておく必要があります。

日本にはその昔、長崎県に出島というものがありました。オランダの商人が出島を居留地として認めてもらい

日本と貿易を行っていたことは有名です。それと同じように、日本の商人も朝鮮に対して、出島のような居留地

を認めてもらい貿易をしていたのです。その居留地のことを倭館と呼び、釜山の龍頭山を中心としたそのエリアは

草梁倭館と呼ばれ、古くから日本人居留地となっていた歴史があるのです。

 

以下、草梁倭館についてのウィキペディアからの抜粋です。

 

1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積が

あった。同時代の長崎の出島は約4000坪であったから、その25倍に相当する。新倭館とも呼ばれた。

竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や

東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された

館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞(通訳官)などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋

仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。

当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医

を問わず多かった。また1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を

認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、

倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。なお、1702年に完成した江戸幕府作成の「元禄日本図」には

朝鮮半島の南西端に“草梁項”という地名と“和館”と書かれた建物及び対馬藩との航路が記述されている

 

(2017年12月30日撮影)

そういった倭館を通じて日本と朝鮮の歴史が長年続いて来た場所の一つであった「釜山」というのを理解して、

明治期から始まる、釜山港開港以降の歴史へと繋がっていく訳です。

 

(2017年12月30日撮影)

 

(2017年12月30日撮影)

現在もこの起源から下関と釜山を結ぶ航路は関釜フェリーとして現在も運航されています。

韓国側は釜関フェリーとして交互に運航しています。

 

(2017年12月30日撮影)

大阪商船が運航していたフェリーのパンフレットです。北鮮急航航路案内とあります。

ピンクの航路が大阪から北朝鮮の清津や中国に伸びています。

 

(2017年12月30日撮影)

大日本帝国時代の臺灣、朝鮮、満州という代理店の出先を見るだけでロマンがあります。

 

(2017年12月30日撮影)

山口県柳井町の周防銀行が釜山に支店を構えていたようです。

 

(2017年12月30日撮影)

 

(2017年12月30日撮影)

日本で皇太子様が誕生された際に、学校で、「皇太子さま御誕生万歳」というような表現を書く、習字のコンテストが

あり、それで佳作に入賞した韓さん小学4年生?に贈られた賞状です。調べてみると、現在の上皇様(平成天皇)

のお生まれが昭和8年12月23日です。賞状の授与日が昭和11年となっていますが、御誕生されて3年目に

コンテストが行われたのでしょうか?賞状の日付が上皇様のお誕生日と同じなので、現在の上皇様が誕生された

際のお祝い書きであったことは間違いないと思います。賞状授与者の肩書が「愛国婦人會」となっている点は、

くわばらくわばら、と言った感じです。どこからともなく「この非国民め~」という声が聞こえてきそうです。

 

(2017年12月30日撮影)

影島に架かる釜山大橋のしおりで、釜山を代表するシーンとして当時の日本政府が多く用いていました。

現在は影島大橋と呼ばれています。1934年11月23日に完成した橋で、当時、大阪に存在した会社によって

造られた跳開橋です。東京の勝どき橋をご存知の方であれば、そのテイストがそっくりなので日本製なのでは?

とすぐ分かるはずです。釜山市には建築時の資料の一部が残っており、当時の資料からすると日本製であること

は間違いないと釜山市側も発表しています。

 

(2018年5月撮影)

80年前のしおりに載っている光景とほぼ変わらない姿に感動します。

 

(2017年12月30日撮影)

1934年、完成当時の写真です。

 

(2018年5月撮影)

現在でも毎日午後2時の一度だけ、跳ね橋が上がります。午後2時が近づくと、いつのまにか橋の袂には大勢の人

が集まります。サイレンが鳴り響き、それが止むと、ゆっくり橋が上がっていきます。

コリラックマもしっかり見てきました。

 

(2017年12月30日撮影)

昭和5年12月6日の釜山日報。ソウルと東京を結ぶ列車の時間短縮に関する記事がトップを飾っています。

 

(2017年12月30日撮影)

下の写真が当時の東洋拓殖釜山支店です。

 

(2017年12月30日撮影)

100年以上前の事業計画書がしっかりと残されています。

 

(2017年12月30日撮影)

当時の移住者に配布されたしおりです。

 

(2017年12月30日撮影)

その昔、日本からの移住者は、気候が温暖で農作物がよく育つ地域の出身者が多かったという事実をこちらから

も見て取れます。国策による移住=口減らしでした。なぜ、日本人が米国や南米各地に新天地を求めて移住

したのか?の答えは「口減らし」なのです。農作物がよく育つところには人が集まります。食べ物が無い時代、

政府は国内の食料を確保する為に、日本国民の移民政策を推し進めていました。必然的に農作物がよく育つ

地域に人が集まり、そういった地域の人口を減らす必要があったのです。

 

(2017年12月30日撮影)

 

以上、釜山近代歴史館(旧:東洋拓殖株式會社)で見る事ができる釜山の歴史についてでした。

次回は、展示されていた写真と地図をご紹介します。

 

 

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