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旅行の忘備録

ちょこちょこと行っている旅行の忘備録です。Since 2015

与那国島から台湾へは111km、反対方向の沖縄本島へは117km という地理関係で、
かつては与那国島と台湾を結ぶフェリーがあったり、今でも期間限定で飛行機があったりするそうですが、
距離と路線の需要は異なるようで、与那国島から石垣島へ、石垣島から沖縄本島へと戻り、那覇空港から台湾へと向かいました。
琉球は日本とも中国とも交流があり、米国統治下では与那国島と台湾の間で密貿易が行われていたりと関係は深く、今でも中国や台湾には琉球は自国の領土だとする考えがあるそうです。
また、台湾は日本の統治下にあった歴史も持っているので、今までの雰囲気と近いところなのかと思っていましたが、実際はがらりと違ったところでした。

緯度的には与那国島と変わらないので、田舎の方で見られる植物の雰囲気は一緒ですが、沖縄本島から見られるようになった瓦屋根が見られなくなったことに加えて、
中心部では建物のスケール感に圧倒されました。何故なんでしょう?大きな島だから?大陸から来た人たちの感覚で作ったから??
さすがに政治が違うと町も違うのかと思いました。

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空港から台北市内に移動してきて、降ろされた台北中央駅でそのスケールに圧倒されました。

沖縄の首里城も中国っぽいと思いましたが、どちらかというと台湾の先にある香港に近いというか、香港の下町がこぎれいになったところという雰囲気でした。

それと、テレビ番組の画面の構成というか、テロップの雰囲気はまるで日本だった点に、台湾は中国や香港とは違って台湾だということと、日本に近い部分を感じました。

ちょうど土日に訪れたためか、凄いイベントに2つ出くわしました。

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・反原発イベント
片側5車線の道路を両側使用してのイベント。端っこのブースで販売しているグッズがとにかく豊富で???な感覚に。。
メディアも警察も物凄い数来ていました。
また、台湾人もやはり3,11に触発されたようでした。

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・台湾独立イベント
中国から独立したい地域といえばチベットやウイグルが目立ちますが、台湾だって独立したい。

それと、
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・九份
超有名観光スポット・九份に日曜日に行ったら人がどえらく多かった。
ほとんどが東アジア圏から来たと見られる人たちで、お陰で色んな案内が日本語にも対応しており助かる。
ただし、立ち寄った私設の金の博物館では、おっちゃんが英語が全くわからず漢字で筆談。おっちゃんは自分で博物館作るくらいアツい人なので、身振りと筆談と中国語で内容を熱心に伝えようとして下さり、とても感謝する。

という具合に、中国語が話せないので、それまで食パン1斤で1日の食事を賄うなど貧乏旅行をしていたこともあり、台湾では美味しいものを食べたり、散歩したり、美味しいものを食べたり、博物館行ったり、美味しいものを食べたりしてました。
とにかく美味しいものが安い!

ということ以外にあまり語れることがないのですが、普通に楽しかったです。

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旅程の最終日がちょうど台北ランタンフェスティバルの最終日でした。ここでも夜市で美味しいものを食べて…

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今回の旅行は、南西諸島を下って台湾まで行く過程で風土の違いを見てみることがテーマでした。
鹿児島県下までは難なく、運良く思うように見たいものや知りたいものに触れることができましたが、
沖縄県下に入り観光色が強くなったところで、他の旅行者との交流も増え、今まで意識しなかったことに気がつきました。それは、旅行の目的や興味の対象は人それぞれだということです。
自分の場合は自分の知らない地域の暮らしに興味がありましたが、それは何故だろう?とここで初めて疑問に思ったのです。
両親とも先祖代々同じ土地に暮らし、自分もご先祖様たちと同じ土地で生まれ育ち、中学卒業まではここが世の中の全てだという感覚で過ごしていました。ですが、その後の進学や就職で様々な境遇の人たちに出会い、そこで得た刺激が自分の人生を少しずつ快適な方向に導いてくれたことが、その人たちのバックグラウンドである知らない土地での生活への興味の根底にあるのかと思います。
今回見てきた中で驚いた事のひとつが、島の子どもたちはみんな挨拶をすることでした。きっといい生活を送っているんだろうと思います。
自分は地元が辛かった。
生まれ育った土地にずっといることも、離れて暮らすことも、どこで暮らそうが幸せであればいいと思いますが、外に出てみないとわからないことは沢山あります。人によってはそれらは知らなくてもいいことかも知れませんが、今のところ、自分にとって外に出て見聞きしたことの全ては触れてよかったと思うことばかりです。
遂にやってきました、与那国島ー!

日本最西端の島・与那国島は、外洋に囲まれており、天候も不安定で、渡ることが難しかったことから、かつては”どなん”(渡難)と呼ばれており、石垣島などの八重山諸島からも、台湾からも距離があったためか、薩摩や琉球の支配を受ける前は独立した国だったそうです。

日本最西端の碑。多分に漏れず行ってきました。天気が良いとここからでかでかと台湾が見えるそうです。

こちらも最西端というスペシャリティから旅行者の憧れの地であり、他の時期はわかりませんが、石垣島から与那国島へ向かうフェリーの中は、旅行者が8~9割を占めているようでした。

港から宿泊先に向かう車は、島の南側の牧場の中を通り抜けました。ここでは食肉用の子牛や子馬を生産しており、出荷先の飼育を受けた場所でブランドがつくそうです。(知らなかった―。)

与那国島最高峰の宇良部岳頂上からは、島全体が見渡せます。田畑の形状が区画整備された平野のそれとは違います。

海を臨む牧場の風景は長閑そのものですが、逃れられない環境でもあることを考えると、絶望感をも感じました。
あとで立ち寄った与那国空港では郷土史の本を数冊見かけ、その中で地元に伝わる昔話を集めた単行本を1冊購入しましたが、内容は昔話特有の教訓めいたもので、中には大勢の前で恥を晒してしまった一家が島での生活を捨てて中国に渡った話などもあり、全体的に厳しい環境を伝える内容に加えて閉塞感が漂っており、牧場で感じたものと近いものを感じました。



与那国島で一番面白かったことは、泡盛の工場見学でした。
泡盛については不勉強だったので、見るもの聞くこと全てが面白くて、

・インディカ米から作られていること…もともとこの地域ではインディカ米が食されており、日本の文化の流入と共にジャポニカ米が食卓に上るようになったのちも、お酒だけはインディカ米で製造され続けている。
・黒麹が使用されていること…内地のように寒くて雑菌が繁殖しにくい時期というものがないため、雑菌に強い黒麹が使用されている。

などなど、お酒造りの背景にある気候や文化や歴史まで説明して頂いてとても興味深かったです。

数年前に新築したばかりの工場内部。人里離れた宇良部岳の中腹にあります。

中でも、

・日本一アルコール度数が高い泡盛(花酒)を製造できる唯一の場所…アルコール60度のお酒を“泡盛”として製造できるのは、与那国島の酒造のみ。60度の泡盛は“花酒”と呼ばれ、蒸留の際に最初に出てくることに由来する。
酒税法に準じると45度以上のお酒は泡盛ではなくなるものの、花酒は与那国島の行事の中で伝統的に使用されている生活必需品であり、アメリカから日本に返還される際に交渉した結果、特別に認められた。島内の酒造元は3軒。

という点にスペシャリティを感じました!
与那国島の人々の生活の節目で様々な行事に使用される花酒ですが、
近年では高校進学の際に島を離れる世代に大人が買って、5年後成人した際に同級生みんなで呑む、なんてことも行うそうで、案内して頂いた方も高校進学で島を離れる際に実際にこのことを経験したと仰っていました。
中之島でも奄美大島でも耳にしてきましたが、ここでも島に高校がないことが生活の大きなハードルになっていることを少し聞かせて頂きました。
それでも、それはそれでその土地の風習になり、大切な思い出になっていました。

数年前に新築したばかりの工場内部。人里離れた宇良部岳の中腹にあります。これから沖縄県内各地へと出荷されていくどなん。

★見学させて頂いた 国泉泡盛合名会社の花酒”どなん”
http://www.tohmas.biz/donan

【竹富島】
2人の友人からリクエストを頂いたので、竹富島にも行ってきました。
石垣島と竹富島は高速船で15分ほどの距離で、高速船も30分に1本のペースで出ており、そこらへんの田舎のバス停よりも本数が多くてアクセスが良いです。
というのも、竹富島全体が重要伝統的建造物群保存地区として古い町並みが残っており、それらを目当てにやって来る観光客の需要がもんのすごい。


・高速船に並ぶ人数が遊園地のアトラクション並。
・町全体が見渡せるなごみの塔が長蛇の列で結局登れずじまい。
・貸自転車の数が半端ない。地方都市の中心部の駐輪場並の自転車が控えている。
・1日だいたい1000人くらいの観光客が来島。住民の約3倍。(統計はこちら


旅行者にとっては”ハレ”の日に訪れるところかもしれないけど、住民の方はこれが日常だと考えると、特異なところだと思いました。(京都もそうだと思いますが、規模が違いすぎます。)



【波照間島】
波照間島は石垣からフェリーで2時間、高速船で1時間半ほどの場所で、アクセスは良いとは言えませんが、それでも日に貨物船が2便、高速船が3便あります。
日本最南端の有人島ということで旅行者が多く、自分も折角なのでというミーハーな動機でやって来ました。
こちらは3時間ほどしか滞在時間がなかったので、自転車を借りて最南端の碑と集落だけ行ってきました。


最南端の碑周辺や、そこに至る道すがらに茂る植物に、気候の違いを見て取ることができました。南の海の先にあるのはフィリピンです。

集落の様子は、家並みや植物の印象を除くと、普通の田舎の静かな集落という印象でした。ただし、民家に混ざって居酒屋や民宿の数が多く、稀な世代(高校生~大学生くらいの島外に進学しちゃってる世代)の若い人が昼間から数名歩いている風景に、普通の田舎との違いを感じました。


島を想い 島に生き 島を愛す かけがえのない ベスマピトゥぬ心 

…?

余所者にはわからない、島の心。
沖縄本島からは飛行機で石垣島までひとっ飛びでサクッとやって参りました。(※今回の旅行は船旅にこだわっているわけではなく、安ければ飛行機も利用します。)
石垣島に到着して驚いたことは、ずばり観光地だったこと。バスセンター周辺には土産物店がずらりと並び、行きかう人々は旅行客だらけで、更に、周辺離島へのハブである石垣港周辺は自分と同じように島巡りを目的とした旅行客が大半で、沖縄県、それも石垣島に来た途端、島は、旅行客の間で「何処の島に行った?」なんて情報交換が頻繁に行われている”観光地”に変わりました。

バスターミナルと離島ターミナルの側の通りには、
土産物店がすらりと並び、行列をなしたツアー客や、
2~3名連れの旅行客が行き交っていました。

そうした旅行者同士のコミュニティで飛び交う情報は、島に関連する情報なんだけど、島の空中で展開しているようで、そうした面に少し物寂しさを感じてしまいました。
ですが、そもそも、どこに行っても自分は他所者であって、土地柄もあると思いますが、今まで地に足が着いた人たちとお話できていたことの方が不思議だったのかも知れません。
今まで自分が巡ってきた島々は“生活の場”であり、そこで観光振興の様子を垣間見たことを思い出して、少しばかり複雑な気持ちになりました。

そんな石垣島でちゃんとお話しできた唯一の石垣在住者が、昨年オランダから移住してきたという東京生まれのUEDAさんでした。UEDAさんは石垣島の中心部から車で30分ほどの山の麓の集落にアトリエを構え、香りに纏わるお仕事や、香りを使ったアート活動をしています。特にアート活動においては、香りのアートの第一人者として海外の大学で講師も務めるなど、クライアントは他県や海外がほぼほぼを占めるそうです。

古民家をセルフリノベーションしたUEDAさんのアトリエ。
地方ほど一軒家を借りることはハードルが高いもの。

香木の匂いを体験させて頂いた別棟も素敵でした。

療養のため石垣島に長期滞在したことをきっかけに、石垣島の気候が香りのお仕事に適していたこともあり移住に至ったそうですが、移住してきてから今まで貫いているポリシーは、「自分のことは自分でやること」だと仰いました。
中之島で移住者の方々を見て、その土地の大事なピースになることが地方移住のキーではないかと思いましたが、石垣島のUEDAさんはこの点の気構えが180度違っていました。
UEDAさんにドイツで行う展示の模型を見せて頂きました。
香りを頼りにゴールに辿り着く、という迷路型のインスタレーション。
思えば、共に地元で生まれ育ち、地元で自営業を営む両親の姿を見て育ってきた自分にとって、田舎のコミュニティの中で生活していくことは、決して自由なものではありませんでした。だからなのか、昨今の地方移住ブームで、田舎暮らしに自由と豊かさを期待する都会の人には、違和感を覚えていたところでした。
資源や流通が限られた中之島で、お金以外でのギブアンドテイクが行われている様子を垣間見て、ギブを受けるにはテイクを提供しなければならないことがよくよくわかりました。
ですが、お金という共通認識で図り合うことができず、感情が絡み合うことだからこそ、煩わしい部分も含んでいます。
田舎で暮らしていくにはこの煩わしさを受け入れる覚悟をしなければいけないものだと思っていました。
UEDAさんが畑で育てたお野菜で作ったサラダと
キッシュ(七輪の上のアルミの中)を頂きました。
ドレッシングも即興で手作り。
本当に本当にとっっても美味しかったです!
だからこそ、「自分のことは自分でやる。」というUEDAさんのお言葉に、尊敬の念と、僭越ですが、純粋に応援したい!という気持ちが沸きました。石垣島にはお金で手に入る物はかなりありますが、それでもそのお金では手に入らないその土地のものもあると思うので、これはこれで大変な事だと思います。「どこまでできるかわからないけど、」と仰っていたことも印象深かったです。
結局、地域社会のピースになるか、自分の生活は自分で賄うかは、どちらを選んでも大変なことだと思いますし、どちらが正しくてどちらが間違いといったこともないとも思いました。


★UEDAさんのアトリエ 香房PEPE http://atelierpepe.blogspot.jp


via 旅行の忘備録
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沖縄本島からは飛行機で石垣島までひとっ飛びでサクッとやって参りました。(※今回の旅行は船旅にこだわっているわけではなく、安ければ飛行機も利用します。)
石垣島に到着して驚いたことは、ずばり観光地だったこと。バスセンター周辺には土産物店がずらりと並び、行きかう人々は旅行客だらけで、更に、周辺離島へのハブである石垣港周辺は自分と同じように島巡りを目的とした旅行客が大半で、沖縄県、それも石垣島に来た途端、島は、旅行客の間で「何処の島に行った?」なんて情報交換が頻繁に行われている”観光地”に変わりました。


バスターミナルと離島ターミナルの側の通りには、土産物店がすらりと並び、行列をなしたツアー客や、2~3名連れの旅行客が行き交っていました。

そうした旅行者同士のコミュニティで飛び交う情報は、島に関連する情報なんだけど、島の空中で展開しているようで、そうした面に少し物寂しさを感じてしまいました。
ですが、そもそも、どこに行っても自分は他所者であって、土地柄もあると思いますが、今まで地に足が着いた人たちとお話できていたことの方が不思議だったのかも知れません。
今まで自分が巡ってきた島々は“生活の場”であり、そこで観光振興の様子を垣間見たことを思い出して、少しばかり複雑な気持ちになりました。

そんな石垣島でちゃんとお話しできた唯一の石垣在住者が、昨年オランダから移住してきたという東京生まれのUEDAさんでした。UEDAさんは石垣島の中心部から車で30分ほどの山の麓の集落にアトリエを構え、香りに纏わるお仕事や、香りを使ったアート活動をしています。特にアート活動においては、香りのアートの第一人者として海外の大学で講師も務めるなど、クライアントは他県や海外がほぼほぼを占めるそうです。


古民家をセルフリノベーションしたUEDAさんのアトリエ。地方ほど一軒家を借りることはハードルが高いもの。

香木の匂いを体験させて頂いた別棟も素敵でした。

療養のため石垣島に長期滞在したことをきっかけに、石垣島の気候が香りのお仕事に適していたこともあり移住に至ったそうですが、移住してきてから今まで貫いているポリシーは、「自分のことは自分でやること」だと仰いました。
中之島で移住者の方々を見て、その土地の大事なピースになることが地方移住のキーではないかと思いましたが、石垣島のUEDAさんはこの点の気構えが180度違っていました。
UEDAさんにドイツで行う展示の模型を見せて頂きました。香りを頼りにゴールに辿り着く、という迷路型のインスタレーション。

思えば、共に地元で生まれ育ち、地元で自営業を営む両親の姿を見て育ってきた自分にとって、田舎のコミュニティの中で生活していくことは、決して自由なものではありませんでした。だからなのか、昨今の地方移住ブームで、田舎暮らしに自由と豊かさを期待する都会の人には、違和感を覚えていたところでした。
資源や流通が限られた中之島で、お金以外でのギブアンドテイクが行われている様子を垣間見て、ギブを受けるにはテイクを提供しなければならないことがよくよくわかりました。
ですが、お金という共通認識で図り合うことができず、感情が絡み合うことだからこそ、煩わしい部分も含んでいます。
田舎で暮らしていくにはこの煩わしさを受け入れる覚悟をしなければいけないものだと思っていました。
UEDAさんが畑で育てたお野菜で作ったサラダとキッシュ(七輪の上のアルミの中)を頂きました。ドレッシングも即興で手作り。お世辞抜きでとっっても美味しかったです!

だからこそ、「自分のことは自分でやる。」というUEDAさんのお言葉に、尊敬の念と、僭越ですが、純粋に応援したい!という気持ちが沸きました。石垣島にはお金で手に入る物はかなりありますが、それでもそのお金では手に入らないその土地のものもあると思うので、これはこれで大変な事だと思います。「どこまでできるかわからないけど、」と仰っていたことも印象深かったです。
結局、地域社会のピースになるか、自分の生活は自分で賄うかは、どちらを選んでも大変なことだと思いますし、どちらが正しくてどちらが間違いといったこともないと思います。
ただ、こうした事への理解がないまま、「野菜もらいながら自由に暮らして…」などと甘えた気持ちでは移住は難しいと思います。

★UEDAさんのアトリエ 香房PEPE
http://atelierpepe.blogspot.jp
徳之島の港からは、プライベートで旅行中の船乗りさんと一緒に船に乗りました。
仕事でも船に乗り、プライベートでも船旅をするという、船と島旅が好きな船乗りさんから、途中で寄航する沖伊良部島や、与論島について、到着する度にその島について色々と教えていただきました。

島を離れる人と送る人を結ぶテープ。これから1週間くらいすると、もっともっとテープが増えて、太鼓や三線の音が鳴り響くようになるそうです。

船乗りさんは普段陸にいないから貴重な出会いよね!?という思いから、島のこともお仕事のことも色々教えていただきました。

船乗りさんは沖縄北部の本部で降りて、自分は終着の那覇で降りました。

トカラ列島の中ノ島では、生えている植物が大分違うと思い、奄美ではすれ違う人の顔が見慣れた日本人の顔とちょっと違うような気がして、加計呂麻島では質素な家々が屋根だけは頑丈につくられているなぁなんて思い、徳之島ではおばちゃんたちの会話が全くわからず...
なんて違いを感じながら遂に突入した沖縄県は、またがらっと違う風土の土地でした。なんとなく、年末に訪れたマレーシアを彷彿とさせるようなかんじで、南方に近づいているんだ!とわくわくさせられました。そして大都会!

地元・久留米の○星ラーメンのようなお店がたくさんあります。

本島に到着したのは夜だったので、船乗りさんに教えてもらった24時間営業の美味しいそば屋さんでおそばを食べて、まるで東南アジアな雰囲気のゲストハウスで床につきました。

ゲストハウスはまるで異国のようでした。マレーシアに行った際に漂っていた匂い同じ匂がしました。
奄美大島から沖縄本島までの間には、北から順に徳之島、沖伊良部島、与論島があり、これらの島は全て鹿児島県下になりますが、地元の方曰く、文化圏としては徳之島と沖伊良部島の間に沖縄と鹿児島(奄美)の境界があるそうです。
そんな徳之島は、日本最大の医療グループ・徳洲会の創始者で離島への医療の普及に尽力した徳田虎雄氏や、日本弁護士連合会の初代会長である奥山八郎氏をじはじめとする偉人を多く輩出していることが特徴で、中でも、120歳まで生きたとされる泉重千代氏と、116歳まで生きたとされる本郷かまと氏の男女2人の世界最年長者を輩出している点で以前から気になっていました。なぜなら長寿は努力だけでは到底なれないと思うので。

泉重千代氏の生家に立つ銅像。本郷かまと氏の生家周辺といい、海に面した穏やかな土地でした。

徳之島で宿泊したゲストハウスは、珍しく地元の方が営んでおり、歴史と観光案内が大好きなゲストハウスのおじさんの車で、犬の散歩を兼ねて徳之島の案内をして頂きました。
犬の散歩を兼ねて、とうのは何かと言うと、おじさんが運転する車に犬が走ってついてくるんです。普段30Kmは走ってしまうという。。(しかも犬の食事は客が残した残飯)

スーパースタミナ犬・ビンタ(メス)と、おじさんの車(おじさんの顔つき)。

おじさんが言うには、琉球による統治ののち薩摩による統治を経て、更に第二次世界大戦後にはアメリカの統治下にあったため、「なにくそ」という根性がつき、そのことが多くの偉人を輩出した原動力になったのだとか。
徳之島に限らず沖縄や鹿児島の離島のほぼほぼが常にどこかの統治下にあった歴史を持っていますが、今まで学校であまり詳しく教わったことがなく、歴史は勝者のものなんだなーとつくづく思わされました。

晩には、奄美大島在住で仕事で週の半分は徳之島に滞在しているというサラリーマンの方からも色々とお話を聞かせていただき、徳之島の男の子はヒーローよりも闘牛が好きという話や、島内に4箇所も闘牛場があり盛況だということ、闘牛では大金が動くこと、地元偉人への敬意、更に、沖伊良部島のおばちゃんが星の砂で財を成した話や、奄美大島で父親が大島紬の加工職人をされていたとのことで、大島紬の衰退の生々しい話なども教えていただきました。
おじさんからもサラリーマンの方からも、ディープでデリケートな島の話をたくさん聴かせていただきましたが、話す口調は穏やかで、楽しげに笑って話すからもう凄いです・・・。

ゲストハウスの居間。普通の民家の居間そのものでした。

更に、長生きのコツは「普通にしていること」と教えてくれたのは、ゲストハウスのおじさんの母親である87歳のお婆さんでした。お婆さんは存命中の泉重千代さんのことも知っており、とても穏やかな人だったと言います。そんなおばあさんはゲストハウスの近くに住んでおり、杖を突いてゲストハウスまでやって来て、杖を忘れて帰るそうです。
この他にお話した方からも、徳之島の人の普通はパワフルでいて穏やかで、そしてポジティブ!という印象を受けました。

また、徳之島の人が普通に食べているものも教えていただきました。
島味噌という米みそに茹でて炒めた豚を漬け込んでおく”豚味噌”は、冷蔵庫がない時代に堵殺した豚肉を長期保存しておくために考えられた保存食で、徳之島の人は口々に「普通」とい うからどこの豚味噌が美味しいとか、こだわっているとか、名店なども特になく、お土産用に港の売店に缶詰が並んでいるくらいです。この「普通」の感覚が気持ちいい。

豚味噌。ゲストハウスのおじさん手作りのもので、家庭の味。

それと、「徳之島で一番美味しい」という”島とうふ”屋さんも教えていただきました。このお店の豆腐は深海から汲んだ海水を使用し、釜はガスではなく蒔をくべるなど、こだわりの製法で豆腐を作っているお店でした。
ですが、お話を聞いていても、店構えを見ても、やはり「普通に美味しいものを食べたいから」という印象で、箔をつけて格好をつけようとか、体にいいものを背伸びして提供させようとかいった、所謂”高級ラーメン”のようなものはものは感じませんでした。

島豆腐。民家に隣接する工場兼店舗。個人で営んでいる小さなお店で、ネットにも情報はない。

ちょっと間、限られた人たちだけですが、徳之島の人たちを見て、こうやって普通にしていれば長生きできるかもな、と思いました!
鹿児島県の奄美大島の南端から対岸に見える加計呂麻(かけろま)島は、山がちな地形と入り組んだ海岸に囲まれた、静かで自然豊かな島です。

島の主要な産業は製糖業で、他の南西諸島の島々と同じく、薩摩藩の圧政による搾取とも言えるサトウキビ生産の奨励に端を発します。

加計呂麻島の黒糖は、そのような厳しい歴史を経て、現代に至っては島の特産品となり、奄美諸島で生活する人のみならず、観光で訪れた人のお土産として重宝されています。


砂が白く、底深くまで透き通った海がとてもきれいです。


奄美諸島と同じく黒糖の生産が盛んな沖縄では、島や地域ごとに大きな製糖工場があり、その地域で生産されたサトウキビが工場に集められてまとめて加工されるため、味や品質がある程度一定に保たれていますが、
加計呂麻島には4つの製糖会社があり、それぞれに原料となるサトウキビの種類や、使用する石灰の量、製法などに微妙な違いがあり、製造元ごとに味の個性があるのだそうです。

「だから、みんな好みの味を選んで買ってるんだよ。」と、乗っていたバスの運転手さんが教えて下さいました。


加計呂麻島特産のサトウキビの絞汁を煮詰めて黒糖を作っているところ。1度に約2時間は煮詰めるのだそうです。


そんな加計呂麻島で唯一、個人で製糖業を営んでいるのが、中田さんご夫婦です。

中田さんは加計呂麻島で生まれ育ち、加計呂麻島の真珠養殖場で定年まで勤め上げた後、奥様と二人で製糖業をはじめたのだそうです。

現在は加計呂麻島の対岸のまち・奄美大島の古仁屋に住んでおり、毎日加計呂麻島に通ってサトウキビの栽培や黒糖の製造などを行う生活を送っていらっしゃいます。

以前は島内にある約30の集落で、集落ごとに黒糖の製造が行われており、定年退職後に昔の記憶を頼りにサトウキビの栽培や黒糖づくりをスタートして、今年で5年目に入ります。


夫婦で交代しながら搾汁を煮詰めます。釜の燃料にはサトウキビの搾りカスも使用されます。


サトウキビと一口に言っても、多種多様で、現在は搾汁がたくさん取れるよう品種改良された品種が主流になっています。
ですが、そんな中、中田さんは"タイケイ種 "という古来原種のサトウキビを栽培し、昔ならではの重油の搾汁機を使用するという、原料にも製造方法にもこだわった黒糖を生産しています。


粘度を見たり、焦げないようにしたり、気が抜けない作業が終わると、煮詰まった搾汁は巨大な鍋に移されます。


煮詰めた搾汁に空気を含ませることで、がちがちの塊になることを防ぎ、崩れやすく味もマイルドになるのだそうです。

「だからたくさんは作れないんだよ。」と言う中田さんから、鍋の端からつまんだできたての黒糖を味見させて頂きました。

暖かくて柔らかい黒糖は、口の中でふわっと溶けて、絶品でした!びっくりするくらい美味しかったです。
やっぱり出来たてが一番美味しいものなのだそうです。


できたての黒糖は、あったかくて、やわらかくて、ほっぺた落ちそうでした(((o(*゚▽゚*)o)))

もちろん、冷めてもとても美味しくて、単純に甘いものではなく、黒糖独特の風味がありつつも爽やかで品があり、ついつい小さな塊をぱくぱく食べてしまいます。

黒糖の美味しさという以前に、味を今まで知らなかったんだと思わされます。

中田さんがタイケイ種にこだわる理由は、この味の良さなのだそうです。


平たいバットに移された黒糖は、少し暖かさが残るタイミングで切り分けられます。時間との勝負です。


中田さんが加計呂麻島から奄美大島の古仁屋に移り住んでかれこれ40数年経つそうですが、その間、仕事で加計呂麻島に毎日通いつつも、先祖代々の土地は何もしないまま放置状態だったそうです。

定年退職後にこの土地で何かできないかと考えた時に、サトウキビの栽培を思いついたそうですが、それだけでは収益が少なく、他に何かできないかと考えていたところ、ちょうど搾汁機や釜などのサトウキビの加工に必要な道具を譲ってもらったのだそうです。

土地があり、製糖に必要な道具も揃ったところで、長年ずっと黒糖を製造している他所の工場とはどう違うものを作っていこうか?と考えて辿り着いたのが、生産性は低いものの味の良いタイケイ種の黒糖を生産することでした。


ほとんど電動化されている中、他ではすっかり見ないものになってしまった重油式の搾汁機。


生産性の良い品種のサトウキビの栽培が主流となっている中、タイケイ種による黒糖づくりを行う製造元は少なく、食べてくれた人が味の違いに気づき、「美味しい!」と言ってくれることが、中田さんの喜びであり、モチベーションになっているのだそうです。

サトウキビを育てたり刈ったり、火を焚いて搾汁を煮詰めたりする作業は、とても手間も体力もかかる作業ですが、中田さんはにっこり笑いながら「黒糖作りは楽しいよ。」と語って下さいました。


サトウキビと旦那さんの写真が目印のパッケージは、姪御さんのデザイン。



★中田さんの黒糖はこちらで購入することができます。
ビッグツー奄美店 鹿児島県大島郡龍郷町中勝580
ホテル ビッグマリン奄美 鹿児島県奄美市名瀬長浜町27-1
奄美大島は吐噶喇列島の南に位置し、本州など日本の主要な4島を除くと、新潟県の佐渡島に次ぐ面積を誇ります。また、”奄美諸島”と呼ばれる近隣の島々の中でも、中心的な島として進学のため周辺の島から出て来る人もいるのだそうです。

実際に奄美大島で宿泊したゲストハウスのオーナーさんご一家は、お子さんの高校進学のため吐噶喇列島の宝島からやって来たというご家庭でした。
しかも、中之島の移住者の方々から移住のきっかけになったと聞いた”トカラインターフェイス”というNPO団体の設立に携わっていたそうで、何故か奄美大島で吐噶喇列島の地域おこし情報を耳にす ることができました。
きっともっと長くいて、もっとたくさんディープに関わったら、きっといろんな島の情報に触れられるんだろうなー。

またゆっくり時間をつくって奄美に来ようと思います。
また、ここに来て今度は宝島にも行きたいなと益々思いました!

★NPO法人トカラインターフェイスhttp://tokara-yui.net/

奄美大島ではあまり見て回れませんでしたが、なんとか名物・鶏飯にはありつけました!
鹿児島県鹿児島郡十島村という、人口約300人の村があります。
村の実態は、屋久島から奄美大島までの間に点在する10の島々で、7つの有人島と3つの無人島から形成される”日本一長い村”で、その村に辿り着くには、鹿児島港から週2便のフェリーに乗って北端の口之島まで約6時間、南端の宝島まで約12時間かかります。

フェリーとしまに乗る乗客は、みな顔見知りの様子。島に暮らす人たちにとっての大事な足。

鹿児島港からフェリーに乗って、まだ夜も明けない5時過ぎ頃、「間もなく本船は口之島に到着します」というアナウンスが船内に響き渡ると、眠気を押して好奇心からデッキに繰り出した眼前は闇。海も空もわからない闇の中、風だけがフェリーの進行を伝えてくれます。その闇の中に、突如岩肌のようなものがぼんやりと船の明かりに照らされて、「島がある!」と認識させられます。
徐々に港の明かりが見えてきて、船が接岸すると、多くの人や物が船から出たり入ったりする様子が見られました。このフェリーは島の人たちにとって身近で大事なインフラなのだと思わされました。

週に2度届くフェリーの積荷を、みんな待っています。

到着から30分もしないうちに、フェリーは次の目的地である中之島へ向かい出港しました。
私は中之島で下船し、そこで昨年9月にコスタリカから移住してきたという、ホンダさんという方から声をかけていただきました。

吐噶喇列島は、琉球文化のベースに大和文化が乗っかった、2つの文化圏の境目だと本で読んだことがあります。
中でも中之島には、島内の西側に平家の 末裔では?と言われる方々が暮らす西区と、奄美からの入植者の末裔と言われる方々が暮らす東区があり、民俗だけでなく人の動きにもそれが現れていますが、これら2つの集落に加えて、高原の方にIターン者が多く暮らすという日の出区があります。
そんな中之島で、『歴史民俗資料館』や『天文台』、天然記念物の『トカラ馬』などの観光資源を管理されているのが、昨年コスタリカから移住してきた本田さんでした。
本田さんはホンジュラス人の旦那さんや二人のお子さんと生活出来るベストな環境を求めて中之島に移住してきたという、なんとも振り幅が広い方で、全国放送のTVの取材も受けたのだとか。
商店が1軒、自販機が3つと、旅館以外には目立ってお金を落とすところがない中之島で、本田さんは島の観光の今後を担うお仕事をされています。

本田さんがお世話をしているトカラ馬。野生馬をどう人慣れさせ ていくかが課題だそうです。

ですが、観光地としてどうかという以前に、島はその土地に暮らす人たちの生活の場です。そして中之島での生活のその当たり前は、昨今盛んに話題に登る『地方移住』に当たって大事な示唆を含んでいるように感じました。
都市に暮らす人たちは普段、多くの知らない人たちとすれ違いながら生活しています。ですが、限られた土地の中で150余名が暮らす中之島では、すれ違う人はみな知り合いです。すれ違う子供たちはみな元気に挨拶し、年配の方は世間話をはじめます。

児童生徒17名が学ぶ中之島の小中学校。みんな元気に「こんにちは」と言ってくれました。(提供:中之島小中学校)

生まれも育ちも中之島だという80歳のお婆さんは、「移住の人たちはなんで遊びに来てくれないのかねぇ?」と言い、島の人みんなが話し 相手だ、話し相手がいないと寂しい、と続けます。

私はお婆さんのこの感覚に「なるほど」と思うか、「ふーん」と思うかどうかが肝心なところではないかと思います。
所謂IT系や文筆業などで中央から自分の仕事を持って地方に移住する形もありますが、その土地に求められる役割を担い、協力関係の中で打ち解け合い、その土地の一部として暮らしていくことに、地方移住の肝心な部分があるのではないか。
などと考えた中之島でした。

中之島で生まれ育ち、戦争も結婚も中之島で経験したというお婆さんから貰ったキャラメル