三度目の正直 |  ここで一言

三度目の正直

西サハラに入りました。

西サハラとは何か?

それは、勝手に目の前のケータイやPCでgoogle先生に聞いて調べてください。

調べ終わりましたか?

では、日記の続きをどうぞ。


で、そんな西サハラですが、ラーユーンとダフラという2つの街に滞在してきました。

まずはラーユーンですが、びっくりしました。

想像よりずっとずっと大都会です。
あくまでも想像より、ですが。

「ひょっとしてマラケシュよりも都会っぽくない?」
「少なくともマラケシュより綺麗だよね」
「人々も綺麗な格好をしてない?」

と、ダハラまで「モロッコ国内旅行したい」と言って同行してきたマラケシュ在住の日本人の友達と語り合っていました。 あとで調べたところによると、1938年、スペイン領サハラの行政、軍事センターとして建設された街だそうです。 たしかに、割と高齢の人は、スペイン語ベラベラの人が多かったです。

そして、ラーユーン。美男美女率が高い。

ご飯を食べていても、道を歩いていても、イケメンが視界に飛び込んでくるので楽しかったです。
視界にしか飛び込んでこなかったけれど。


この辺りに住んでいる人間は、男は伝統的な青か白の衣装を纏い、女達は4mの一枚の布を全身に覆っています。この布が可愛くて、友達と布屋を荒ら してきました。ほとんどがモーリタニア産か、なぜかパキスタン産でした。

私はあくまでも、サハラウィを目指しているのに、なぜか私が布を纏うとアフリカンビッグママという感じになってしまいましたが、人々が「ズィナ ズィナ(かわいい、かわいい)」と褒めてくれて、いい気分でした。

マラケシュから夜行バスで向かったラーユーンで一泊して、次の日は再び夜行バスで西サハラ果ての街ダフラに到着。

ここで見る大西洋はとても青くて綺麗でした。

ここの方がラーユーンよりもモーリタニアに近いのに、なぜかモーリタニア産の布がラーユーンよりも高い。品数も少なかったし。ここダフラで国内旅 行を終えてマラケシュに戻る友達は残念そうにしていました。

そして、ダフラの街はモロッコ国旗が異様に多くはためいていました。

モロッコ国旗は、赤地に中心に緑色の星マーク、というものなのですが、街中に赤い色の国旗がはためいている…という様子は、日本人かつ海外で長く フラフラしていて精神の右翼化が進んでいる私には受け入れがたいものがありました。


最初にモロッコを出て西アフリカに向かおうとしたのは、2009年の12月。

しかし、モロッコ出国を決心した矢先にひったくりにあってしまい、物資的にも精神的にもモロッコを出る、ましてや、不足した物資(カメラ等)を調 達するのも不便、精神的にも強靭さが必要となりそうな西アフリカに向かうということができなくなってしまった。

二回目に出国を決めて、イエメン行きの航空券を買ったのが2月の頭。

しかし、すでにこれまでの日記に書いた通りイエメンに行くこともできなくなってしまった。

もう完全に私はモロッコの何らかのブラックマジックにかかったとしか思えなかった。

このままモロッコに居続け、モロッコ人と結婚をし、私+モロッコ人のハーフというハイレベルな美の遺伝子を受け継いだ玉のような子供を、5人くら い産んで、毎日「アッラーアクバール ラーイラーイッラッラー」と唱え、毎日パンを焼き、パンばっかり食べるものだからさらに立派な体格になり、砂糖と油 の摂り過ぎでモロッコ人の死因第一位と噂される糖尿病になってモロッコで死んで土葬されて、処女に囲まれるパラディに逝くのかと思っていました。

しかし!ついに、ワタクシ!やりました!やってやりました!

2010年3月2日。

「モロッコ出国」のスタンプを私のパスポートにバッチリ収めることに成功しました!
(正しくはビザクリアのために12月にも、一度スペインに出国はしているけれど)

これで、とりあえずは毎日タジンな生活から逃れられます!

まぁ、そんなこんなで西サハラの旅も終り。

5ヶ月のモロッコ滞在中で一番長く濃くお世話になった友達ともここでお別れです。


いったい私はいつ帰国をするのか?
お金は足りるのか?

いろいろ自分でも心配ごとはありますが、まぁ何とかやってみます。


ただ、私。
別にモロッコで糖尿病で死んでも良かったとも思っています。
モロッコを出たくてたまらなかったわけではないからね。


最後の最後までモロッコ人は面白かったです。


いよいよ西アフリカ突入です。