町名 新見
キャッチフレーズ 鍾乳洞の街だそうです
所在地 岡山県新見市
最寄駅 JR伯備線新見駅(旧城下町ゾーンは駅から1.5キロくらい)
訪問 2013年4月
江戸時代末期の大名は関氏、一万八千石、外様

観光案内所 あり

高梁川最上流の風情ある素敵な陣屋町。

城山公園の東側「御殿町」に武家屋敷遺構がだいぶ残っています。

「温故館」と銘打たれているのは元用人筆頭渡邊家長屋門と土塀。百十石取りの幹部でした。


温故館前の道は『四間幅』で、江戸時代には五万石以上でなければつくってはいけない決まりだったそうですが、なぜかここはそうなっています。
嘉永時の家臣団の人数は179名、筆頭は家老五百石が一名、あとは百二十石以下だったそうです。

高梁川の東側に広がる商業(旧町人)ゾーンはなまこ壁の古い建物が林立し、どうしても惹かれてしまいます。

新見市観光でよく紹介される三味線横丁です。丸い電球が昔を思い出させてくれます。

このあたりは元料亭の大きな建物が立ち並んでいます。



新見はかつて高梁川の最上流の湊がありました。上の石垣あたりだそうです。高瀬舟で年貢米、鉄や炭を運んでいました。ただし江戸時代は河口の倉敷まで行くのではなく途中の松山(高梁)まででした。松山藩が行きかうすべての高瀬舟を止まらせ荷を積み替えさせたそうです。


これは『御殿町まち歩き』というパンフレットです。このときは下のほうの旧町人ゾーンに惹かれ、右上の「上之丁」「中之丁」「下之丁」あたりの旧武家屋敷街を見る余裕がなかった。建物は残っていないでしょうが、道幅や石垣に風情は残っているでしょうか。

 

余談ですが、幕末頃って、教育熱心な家庭にとっては少年期の藩外留学当たり前、みたいだったようです。

備中松山で紹介した山田方谷は、伯備線方谷駅近くの出身ですが、五歳から十五歳まで新見へ留学していたそうです。そういう縁もあってか終焉の地は新見で、山田方谷記念館が建っています(姫新線刑部駅近く)。