町名 三次(Miyoshi)
所在地 広島県三次市三次町
最寄駅 JR芸備線・福塩線三次駅(駅からの距離1.3キロ)

訪問2012年12月、運甓居のみ2017年9月
観光施設 運甓居(頼杏坪役宅:常時開放していないため訪問には注意が必要)。

三次もののけミュージアム(三次町が舞台の妖怪物語『稲生物怪録』は、まだ侍屋敷が健在だった頃の話です)。

辻村寿三郎人形館(三次市歴史民俗資料館)昔の三次町が模型展示されています。

雲海:季節によっては雲海が見られます。

 

旧城下町へ行くにはJR三次駅から少し歩いて巴橋を渡ります。
そこは旧城下町です。江戸時代初期、浅野氏による広島藩が立藩されたとき、五万石の支藩として寛永九(1632)年から享保五(1720)年まで御館があり侍屋敷がありました。三次藩が断絶になると広島本藩に吸収されましたが、広島城下に屋敷が確保できなかったため、武士は宝暦年間(1760年頃)まで在住していました。
現在、運甓居(頼杏坪役宅)のあたりに御館があり、中通りより西側が侍屋敷が建っていたそうです。町の通りの南北両端(北は太歳神社近く、南は巴橋近く)に番所が置かれ、武家屋敷へ通ずる小路には柵が設けられていました。

上の写真左側(右側も?)が御館跡地。
三次藩末期頃には現在まで続く町並みはほぼ揃いました。


小路がたくさんあります。それぞれ歴史があり観光名所でもあるので、フラフラ迷い込みましょう。

万光小路は本通りから西に入る小路のひとつで、三次藩時代に三次御館の鬼門(丑寅)の方角にあたり、万光院という寺院があったことが名前の由来。魚の棚は魚商人を保護統制し、その商人を集住させたことに由来します。その他『鷹匠小路』『御蔵小路』など、城下町の名残をほうふつさせるものもあります。

こんなパンフを以前は入手できましたが、今もあるのかな?

地図を見るとわかりますが、安芸高田(南西)から江の川、庄原(東北)から西城川、吉舎(東南)から馬洗川とあらゆる方角から川が集まっています。三次からは江の川(北西)として日本海方面に流れます。なので川舟による交易・交通も盛んでした。


今は土手があるため昔の雰囲気とは全く異なります。専法寺の近くは『専法寺浜』と呼ばれ舟がたくさん出入りしたそうです。


三次藩の廃藩後、三次町には代官所や町奉行所が置かれました。三次の行政官といえば頼杏坪が有名です。
頼山陽の叔父、頼杏坪は今から約二百年前、文化文政の頃活躍した学者、行政官です。広島藩の地誌『芸藩通志』を編纂、日本で初めて敬老会を開いた人として、また書の名人として『草枕』でも取り上げられています。問題行動の多かった青年期の頼山陽の面倒もよくみています。
行政官としては五十過ぎてから藩北部の代官となり、七十過ぎに三次町奉行として赴任しました。そのとき住んだのが運甓居です。


三次には長い歴史と文化があり、スーパーにはワニ(サメ)の刺身があったりしますが、かつて県北一の歓楽街といわれた松原通も今や寂しいもの。数年前廃止された三江線跡ももの寂しさを誘います。北部地域ではたたら製鉄が盛んでしたが遺跡といえるものはわずかに君田の茂田にあるくらいでしょうか。(県境を越え島根に行くとたくさん遺跡があります)