2月の電車旅の帰路、姫路駅から岡山駅に直通する便がなく、どこかで乗換が必要となりました。できるだけ岡山駅に近い駅まで行こうと時刻表を確認したところ、播州赤穂駅まで行ける便がありました。

 

播州「赤穂」駅、「赤穂」と言えば「赤穂浪士」。軍事史ではありませんが、「赤穂事件」は歴史好きの方なら御存知ではないでしょうか。以前は年末に「忠臣蔵」がよく放送されていましたね。せっかくなので、播州赤穂駅まで行ってみることにしました。

 

駅を降りてみると、駅舎内は「赤穂浪士」一色。四七士が、通称まで含めたフルネームで紹介されていました。写真撮っておけよ・・・

 

播州赤穂駅から赤穂城までわずか800mということで、赤穂城まで歩いていくことにしました。

 

 

播州赤穂駅からお城通りを真っすぐ南に向かうと、「三之丸大手隅櫓」が見えてきます。現在の赤穂城は北から北東を水堀で囲われており、南東向きの橋を渡って櫓門に向かいます。

 

ここに軍事施設としての工夫が見えてきます。攻撃側は、堀の向こうにある城壁に対して平行に進みながら櫓門に向かうことになるので、長時間、守備側に隊列の側面をさらし続けることになります。石垣の上の壁面には銃眼が設けられており、攻撃側に対して比較的安全に攻撃を加えることができます。当然、攻撃側は侵入前に大きな被害を受けることになるでしょう。

 

 

櫓門から城内に入ると、桝形虎口が侵入者を迎えます。こちらも城内に侵入する攻撃側を縦に長い隊列にさせ、それを蛇行させることで長時間、攻撃側の側面を攻撃できるように作られています。

 

赤穂城の設計には、甲州流軍学者の近藤正純が携わっていると、城内の案内板に説明がありました。

 

 

城内はかなり広く、かなり離れた南側に本丸の城壁が見えてきます。行ってみましょう。

 

 

本丸内から見た銃眼です。攻撃側から身を守りながら、銃の可動域を広げられるよう、城壁の中心に向かって開口部が絞り込まれています。攻撃側からは、銃手を狙うことが難しいでしょう。

 

 

天守台からは、雄鷹台山までを一望できます。赤穂城は、天守台は造られたようですが、天守は設けられなかったようです。太平の世には必要なかったということでしょうか。

 

1時間ほどの滞在でしたが、無料で城内をほぼ自由に見学でき、満足の高い城址でした。周辺には飲食店やお土産屋さんもあり、城址好きな方なら行って損はないのではないでしょうか。

 

せっかく訪れた城址なので、赤穂城の歴史について調べてみました。赤穂城の名がつけられる前、戦国時代は加里屋城と呼ばれていたようで、当時は海に面した海城だったようです。

 

豊臣秀吉の中国攻めでは、激戦と呼ばれるような戦闘は記録されていないようです。筆者の推測ですが、北部の陸路は山に囲まれた隘路で攻めにくく、南部の海路は近くに姫路城があることから、攻略のリスクとリターンが釣り合わなかったのではないかと考えます。

Google マップ

 

せっかく縁ができた土地なので、その土地の軍事史的な歴史を調べてみるのも面白いですね。