大袈裟なタイトルですが、筆者が若い頃から気になっていたことがあります。
「民主主義的な決定により国民主権を放棄することになった場合、民主主義的な決定は尊重されるのか?」です。
中学生の授業で日本国憲法について学んだとき、日本国憲法の三大原則として「平和主義」、「基本的人権の尊重」及び「国民主権」が存在し、この原則に反する憲法改正は国民投票を経ても行われないと習いました。当時は、「これで国民の安全と利益が守られるようになっているのか」と納得したものです。
しかし、「もし、真に国を想う、真に有能なる者」が現れたら、主権を国民からその者に移行してもよいのではないか?、国民主権から独裁政治又は同様の性質を持つ少数集団による寡頭政治へと回帰してもよいのではないか?という考えを持つようになりました。
科学技術の進歩により個人による他者への影響の大きい情報発信が可能になりました。正否の分からない一個人の情報が他者に伝播し、大多数の国民がその情報に踊らされて主権を行使するのは危険ではないか?と筆者は危惧しています。
情報発信という強大な力を手にした個人同士が衝突することを危惧したとき、若き日の筆者はある一つのワードを思い出しました。それが、歴史の授業でトマス・ホッブズの「リヴァイアサン」を習った際の「万人の万人に対する闘争」です。
筆者は高校生程度の知識でしか社会契約説を学んでいませんので、細かな言及は避けたいと思います。
話を戻して、政治体制の移行は、歴史上多くの犠牲を伴いなされてきました。もし、主権者が「将来的に主権を独占又は寡占するにふさわしい存在が現れたら、主権をその存在に移譲する」ことを民主主義的に決定したらどうなるでしょうか?民主主義に勝る政治体制が現れたとき、平和的に政治体制を移行されるのではないでしょうか?
先に述べたとおり、日本国憲法は三大原則の一つである国民主権を覆す憲法改正を認めていません。もし、主権を有する国民が、民主主義的な決定により主権の放棄を決定したとしても、その決定が認められることはありません。
しかし、民主的な決定を覆した国民主権は形骸化するのではないでしょうか?民主的な決定を覆した国民主権は正当性を失うのではないでしょうか?
かつての絶対王政の時代は、国民主権など想像もつかなかったと思います。同様に民主主義の時代には想像もつかないような新しい政治体制が、今まさに誕生しようとしているかもしれません。そのとき、平和裏に体制の移行がなされるのでしょうか?
現状、単なる思考実験の域を出ないと考えますが、時にはこんなことを考えてみてもよいのではないでしょうか。