昨年11月、書店に並ぶ「歴史群像」12月号を手に取りました。表紙を飾るのは「トラック基地の壊滅」の記事。書いているのは、「宮永忠将のミリタリー放談」を配信するミリタリーライターの宮永忠将さんです。
華々しい艦隊決戦が起きたわけでもない「トラック空襲」は、調べても油断していた日本海軍がアメリカ太平洋艦隊によって一大拠点のトラック諸島を壊滅させられたといったことくらいしか分からないこともあり、書籍化した記事を読むのは初めてでした。
購入して読んでいると、「戦国の城」にて伊予国の河後森城の記事も掲載されていました。現在の愛媛県松野町に残る続日本100名城に選定されている城址です。
愛媛県に帰り、時間を余らせている筆者は、この河後森城を訪ねてみることにしました。
道の駅「虹の森公園まつの」からの一枚。ここから国道381号、県道8号と南下してゆくと東側から侵入することができます。
道を歩いただけだと「思っていたのと違う?」となります。確かに侵入路の左右は高所となっており、攻撃側には不利の地形になっていますが、城址っぽさはこの場所では感じられません。
道の北側には、不自然に平坦で、左右が高所になっている箇所があります。この先が河後森城の入口である風呂ヶ谷駐車場です。城の入り口前の防御施設に見えないこともありません。
入口の風呂ヶ谷駐車場には案内板が設置されています。町内の小学生が体験学習として城址内に案内板を作ったようです。社会教育としても活用できそうですね。
いざ攻城開始!
道沿いに山奥へ進んでゆくと、開けたところに出てきます。発掘調査によると鍛冶が行われていたことが確認できたようです。井戸もあることから、居住区域だったと推測されるそうです。井戸跡には、小学生が作った説明が設置されています。
奥には西第十曲輪を示す案内表示が設置されています。かなり狭い通路が急斜面を這うようにつづら折りになっており、歩行には少し注意が必要です。
通路を登ると虎口が筆者を迎えます。左手は西第十曲輪、右手は本郭です。まずは左手、西第十曲輪へ。
西第十曲輪はかなり広めに作られており、掘立柱建物が復元されています。馬小屋になっていたようで、馬の設置物も置かれています。右手には地元の小学生が調べた戦国時代の戦い方や暮らし方が紹介されています。どうやら、攻城側と守備側に分かれて模擬攻城戦も体験したようです。素晴らしい社会教育教材ですね。
虎口まで戻り、反対側の本郭を目指します。本郭までは、いくつもの曲輪が設けられており、狭い通路で接続されています。
西第三曲輪と同第二曲輪の間には、堀切が設けられています。風雨による崩壊を防ぐため盛土で補強されていますが、実際はもっと広い堀切が設けられていたとのことです。発掘調査で検出された時の写真によると、検出時には成人男性一人の横幅から一回りほど広かったようです。
西第三曲輪から眺めると、甲冑を纏って飛渡り、西第二曲輪までよじ登るのは難しそうですね。現在よりもさらに堀切が拡がり、守備側からの妨害があるとまず無理でしょう。
本郭は長方形に整えられています。意外と短辺が短く、やや心細い印象でした。家屋を解体すると、意外と狭かったという感想を抱くのと似ているように思います。
本郭からは南西側から北東
側を一望できます。愛媛県南予地方は山間部が多く、軍隊の通り道は限られます。本郭から周囲を眺めれば、軍隊の移動を容易に把握できたことでしょう。
南西側は宇和島方面からの侵入を監視することができます。
北側は鬼北方面からの侵入を監視することができます。また、松野町の中では比較的平野部が広いため、侵入の確認から対応までの時間を確保することができそうです。
北東側は土佐方面からの侵入を監視することができます。
一通り城址内を見て回り、搦手門から下山しました。搦手門側から降りると、墓地と永昌寺を通過して城下へと降りることができます。平時はこのあたりを居住区画としていたようです。
筆者の探索コース所要時間は、概ね1時間程度でした。日陰部分はややぬかるんでおり、トレッキングシューズのようなシューズを選択するとよかったのかなと思います。今回筆者は、筆者所有のシューズの中で最も安定性の高い「ライトレーサー3」で臨んでいたのですが、やや滑る感触がありました。
次に、河後森城の軍事的価値について考察してみたいと思います。
河後森城は戦国時代、土佐の長曾我部氏と争う土佐一条氏に組していたようです。土佐一条氏が長曾我部氏に敗れた後は、長曾我部氏の影響下にあったようです。現在の松野町にあたる宇和郡一帯は、どうも親土佐国として伊予国よりも土佐国との関りが深かったようですね。
詳しい戦闘の記録は残っていないようですが、土佐方の南伊予進出の前進拠点として機能していたと予想されているようです。
筆者の私見ですが、曲輪の狭さ等から河後森城の兵員収容能力は決して大きくないように考えられます。水の手も一ヶ所であり、大兵力による近接戦闘にはあまり強くなかったのではないでしょうか。
どちらかと言えば、三方を囲う堀切川、広見川及び鰯川を天然の堀とし、川を挟んで敵軍と対峙していたのではないかと考えます。
伊予国と土佐国の境目に、このような天然の要害となる山があったことが、松野町中心部の発展を支えたのではないかと筆者は考えます。
松野町では地元の史跡を教材として活用し、独特の教育も行っているようでした。こういったことをきっかけに、地元のことを理解しようという動きが広がるといいですね。