八丈太鼓の起源と由来
一説によれば「刀を取り上げられて八丈島へ島流しにされた流人(武士)が、腰に差していた二本の太刀を二本のバチに置き換えて、鬱憤を晴らすために太鼓を打ち鳴らした」といわれています。


 

確かなことはわからないとしながらも、八丈島に関する多くの文献が、八丈太鼓を流人と結びつけて説明しています。


 

江戸幕府は、1606年(慶長11年)~ 1871年(明治4年)の265年間に、宇喜多秀家(うきたひでいえ:豊臣秀吉に仕え、四国・九州・小田原征討で軍功をあげ、文禄・慶長の役に参戦。五大老の一人となったが関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流されて没した)をはじめとして、1800余名の流人を八丈島へ島流しにしました。


 

初期の頃は、比較的に身分の高い者が多かったことから、島民は流人を「新しい情報をもたらす人」として迎え、粗略に扱うことはしませんでした。


 

流人は自分の持っている知識や技術を島民に教えて生活の糧としながらも、島のために尽力しました。

その結果、八丈島は本土との交流もままならぬ離島ながら、早くから高い文化水準を得ることができたのです。


 

そのような経緯から「この島の文化は流人を抜きにして語ることはできない」とまでいわれる由縁です。

しかしながら「流人となった武士が鬱憤を晴らすために叩いたのが八丈太鼓の起源である」という説には、少々疑問があります。



 

なぜならば、いくら島流しになったとはいえ、本土ではお祭りなどの際に一般庶民が叩いていたような太鼓を、身分の高かった武士が自ら叩くことなどあり得たでしょうか?


 

いくら離島でのこととはいえ、武士が太鼓を叩き始めたとは到底考えられません。


 

それに、島民の生活でさえままならない貧しい島に流された流人たちは、まずは生きていくための食糧を確保しなければならず、とても太鼓を叩いている余裕などなかったはずです。

 

観光宣伝用に八丈太鼓を「その昔、流罪となった武士が・・・」とアナウンスされることが多いのは「かつて八丈島は流罪地であった」という事実と重なって、訪れた人々に素直に納得してもらえるからではないでしょうか。


奏者の見事なバチさばきと、勇壮で力強い演奏を目の当たりにした観光客は「武士が・・・」という説明に誰もが納得してしまいます。

 

「流人となった武士が、怒りや哀愁・望郷の想いを込めて太鼓を打ち鳴らした・・・」と説明されれば、遠い昔の流人達の姿を想像して思い浮かべ、八丈太鼓の響きに胸を熱くする人もいることでしょう。

では、八丈太鼓の本当の始まりというのは、一体どのような経緯だったのでしょうか?
実は「八丈太鼓は島民の娯楽として誕生したのではないか?」という説が、最も真実に近いように思われます。



これといった娯楽もなかった貧しい島で、何かの折々に太鼓を叩き、唄を歌って、日頃の疲れを癒したのがはじまりではないでしょうか。

 

ある文献の中には、八丈太鼓を「女性の打つめずらしい太鼓」と紹介しているものがあります。


「太鼓はこの島の娯楽として皆で叩いて楽しんでいたが、特に女性に好まれ、女性が主に叩いていた」と説明されています。



事実、八丈島で昔から叩き継がれている太鼓は、尺の小さな太鼓を両面から優しく叩く、女性によく似合う太鼓です。

江戸時代、八丈島は幕府に絹織物を献納していたことから、島ではその織り手である女性が優遇されていました。

 

貧しい離島の女性が「太鼓を叩いて楽しむ」などということは、他の地方では決して許されなかったことでしょうが、八丈島の女性たちは「租税として幕府に納める絹織物を織る」という重要な役割を担っていましたので、大切にされていたのです。
絹糸は繊細な糸です。


 

↑ ライム ↓



手や指先が荒れていたのでは、幕府の厳しい検査に合格して、献納品として納める良い絹織物を織り上げることはできませんので、島では機織りをする女性には、水仕事や畑仕事をさせないようにしていたのです。


 

↑ ランタナ ↓

 

機織りはとても細かい作業で、根気のいる仕事です。
機台の前に長時間座り続け、絹を織るのに疲れた女性たちがお茶を飲みながら休憩し、太鼓を叩いて歌ったりすることは、体をほぐして、気分を変えるのに大いに役立ったのではないでしょうか。

男たちは、女性たちが機織りの手を止めて叩く陽気な太鼓の音と歌に耳を傾けながら、野良仕事に精を出していたのではないでしょうか・・・


和太鼓
打楽器のひとつ。日本の伝統的な太鼓の総称。木でできた胴に皮を張り、それを振動させて音を出すものである。

 

古代から祭礼や神社仏閣における儀式等に使用されてきた。
芸能分野では田楽や猿楽、神楽や民俗芸能、さらに中世以降は雅楽や能楽、歌舞伎、念仏踊りなどの楽器として用いられてきた。


また、天智天皇が作らせたと伝わる「時の太鼓」や前九年の役の絵巻にみられる陣太鼓のように古くから信号具としても用いられてきた。

桴(ばち)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ)と呼ばれる。

大きさによって、大まかに大太鼓、中太鼓、小太鼓に分けられる。

代表的な和太鼓の構造は、くりぬき胴か、弧形の側板を箍()(たが)で締めた結桶構造である。



 

胴材
締太鼓の胴
輪切りにした木材の内部をくり抜いて胴にする長胴太鼓の原木にはケヤキやクスノキなどの広葉樹を用いる。


 

ただし、国産は原料不足のためシオジ・センが主流、また海外からはカリン・ナラなどの堅い木材を用いる。

皮面
長胴太鼓には牝牛の皮を用いることが多い。代表的な和太鼓の構造は、くりぬき胴か、弧形の側板を箍(たが)で締めた結桶構造である。



 

牛の皮(メスは絹、オスまたはホルスタインは木綿に例える)を鋲や紐、ターンバックルや金具等で張りとめてつくられ、桴(ばち)と呼ばれる木の棒で皮を叩いて演奏される。

皮には基本的に数回の出産を経た雌牛が最良とされるが、大きなものでは、雄牛の皮が利用されることもある。


 


下座音楽では撥と表記する。桴の材質は、硬い桴には樫や欅が使われ、柔らかい桴には檜、杉、樅が使われる。太鼓踊りのような民俗芸能では、竹や柳の長桴を使うこともある。


 

桴は単に太鼓の皮を叩くための太鼓の付属品ではなく、太鼓の縁や桴同士を叩き合わせて音を出す、一種の打楽器である。