服部家屋敷跡
此処で郷土芸能の「樫立踊り」と「八丈太鼓」の実演が行われます。
↑ ベンチシートの上に樫立踊りのカードが有ります ↓
此のカードの有る場所に、自分の何かを置いて席を確保します。
↑ パッションフルーツの木が生い茂った舞台 ↓
上手と下手
客席から舞台に向かって右側のことを上手(かみて)と言い、左側を下手(しもて)と言う。
そのため、舞台のセットでは下手に玄関があり、上手に座敷の奥が造られることや、身分の高い役を向かって右に、低い人を左に配置するのが約束事となっている。
落語でも、身分の高い人や年長者を演じるときは下手の方向を、身分の低い人を演じるときは上手の方向を見ながら話す。
上手・下手は現場で最も使われる言葉ともされ、上(かみ)、下(しも)と略して呼ばれることも多い。
また、舞台の前方の客席側を舞台面(ぶたいめん)、舞台の後方を舞台奥(ぶたいおく)と言い、略して面(つら)、奥(おく)と呼ぶ。
欧米では、日本の客席目線とは逆に、舞台に立つ俳優目線から客席に向かって左(ステージレフト)、右(ステージライト)と呼ぶ。
資料展示場
島の成り立ちや歴史、風俗などの文化財や資料を見やすく展示。
↑ 刀剣 ↓
握りと同じ位かそれより長い刃もしくは剣身を備えている武器の総称。
一般的には剣は両刃のものを指し刀は片刃のものを指すが、これに限らないものも存在する。
若衆と力石
力試しに用いられる大きな石である。日本では鍛錬や娯楽として、江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。
磐持石 / 盤持石 / 晩持石(ばんもちいし)、力試し石(ちからだめしいし)など地方によって様々に呼ばれた。
また、伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
海岸から出来るだけ丸くて大きい玉丸石を選び集め、大勢の老若男女か見守る中で肩の上まで担ぎ揚げる力比べが競われました。二十貫(70㎏)もある玉石を担ぎ揚げるのは難事であったと伝えられてます。
浜口 興右衛門(はまぐち おきえもん)
文政12年11月15日(1829年12月10日)〜 明治27年(1894年10月15日)
日本の武士・幕臣。明治期の海軍技官(中将)。諱は英幹(ひでもと)。
咸臨丸の乗船者達 1860年、サンフランシスコにて。前列右から、福澤諭吉、肥田浜五郎、浜口興右衛門(当時31歳)、後列右から、岡田井蔵、小永井五八郎、根津欽次郎。(万延元年遣米使節図録)
↑ 咸臨丸と浜口興衛門 ↓
経歴
浦賀奉行所組同心から長崎海軍伝習所第一期生に選ばれ、航海術を修めた。
与力上席軍艦操練所教授方となり、咸臨丸が太平洋横断を果たした際、運用方として大きな働きをした。
後に軍艦頭取として蟠竜丸艦長を務め、位は大番格軍艦役並に進んだ。
↑ 浜口興衛門と祖先 流人太田道寿と浜口興衛門 ↓
維新後、明治4年に主船少師として横須賀製鉄所に勤務している。
製鉄所が海軍に移管された後、海軍権少匠司に進む。
従六位勲六等(単光旭日章)海軍少技監(奏任官三等)に任ぜられ、横須賀造船所造船科主幹となった。
浦賀奉行所の与力、同心には俳諧を嗜む者が多く、浜口も蕉雪の号を持ち、俳人としても知られていたという。
流人太田道寿と浜口興衛門
江戸城構築で知られる太田道潅の弟が太田道寿です。 その道寿が、なぜ八丈島に流されたのか。
太田家は代々、多くの医者を出していました。犬公方(くぼう)といわれた五代将軍綱吉の御典医である、道寿は、病床の 綱吉の気晴らしに、と芸者を箱に入れて差し向けました。
これが発覚しまして、 寛永元年(1624年)、八丈島に流されたといわれます。
道寿は、島流しというお仕置にも屈せず、島民の医療に尽くしたため、天明三年(1783年)に赦免、妻子を残して江戸に戻りました。
浜口興衛門(英幹)の母は服部クワといいます。そのクワの夫、太田富右衛門の先祖は、江戸城構築で知られる太田道潅の弟、道寿なのです。
勝海舟と八丈島
勝海舟の父小吉が八丈島に懲らしめの為送られ、その時に子供だった海舟も八丈島に住んだとの話も伝わっているようです。
勝 小吉(かつ こきち)は、江戸時代後期の旗本。旗本・男谷平蔵の三男。妻は勝甚三郎の娘で、勝家の養子となる。勝海舟の父。
左衛門太郎惟寅(これとら)と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入った後は小吉。
隠居後は夢酔(むすい)。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。
その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。