幕府御用船を管理していた服部氏の屋敷跡です。


江戸時代、幕府・諸藩が必要に応じて運送を委託した船、または傭船(ようせん)。運送用に船舶を借り入れること。また、その船。チャーター船。



 

比高10メートルほどの高地にあり、石垣がまさに城跡らしい雰囲気を出していますね。正面の入口は喰い違い虎口状となっており、期待感をあおります。

 

江戸時代、幕府への貢上絹(年貢としての黄八丈)を運ぶ、御用船のお船預りの役にあった服部家の屋敷跡です。


初代は伊豆の下田の出身といわれています。屋敷(※敷地)には現在、建物はなく、当時は、大座敷(母屋)と小座敷(離れ)それに、高倉がありました。

※屋敷:現在、屋敷は建物を指すようですが、島では、昔のまま敷地のことをいいます。




玉石垣
石垣は流人、近藤富蔵によるもので、一段目の石垣は、盛土した後に島の溶岩石で積み上げました。

 

石垣の東側は、現在、樫立公民館が建っていますが、一段目は三原山の方向に奥へと続き、石垣の東側は、田んぼでした。




また、タクシー営業所と商店があるあたりは、沢になっていて、水が溜まった池がありました。

これらの田んぼや池を自然の堀と見立てて想像を巡らせると近藤富蔵が築城形式でこの石垣を築いたということも頷けます。

二段目は、波で洗われ、丸くなった玉石で築いた石垣となっています。



 

お船預りとは
米に代わる年貢として、黄八丈を納めるための御用船の船頭のことで、島では代官に次いで重要な役目だったとされています。




入口は流人の築いた二重の玉垣が遺されています。

 

建物等の遺跡はありません。


 

案内板
服部屋敷


服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、
小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。

 



服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方(こぶねがた)のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。


 

屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。


 

服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、
小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。

 

しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波乱に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も、今では此所が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。

屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。

 

 

大蘇鉄
庭内中央には樹齢八百年の大蘇鉄があります。蘇鉄の大きな物は、幹の長さ1メートルで約百年位といわれています。




嬉しさに 人にも告げん さすらへの 

              みゆるしありと 赦免花咲く(読み人知らず)

八丈島で、無実の罪に抗議して餓死したと伝えられる僧侶・慈運の墓にあった2本の蘇鉄の花を指す。

これを見つけた流人の多くに、不思議と赦免の知らせが届いたことから、この名がある。

本州から流刑地を治める代官に届く書状で、特定の流人に対する赦免(罪を許し、刑罰を免除)を許す旨が記載された紙。


 

入口から一番奥の大蘇鉄は、大変珍しい大枝を持った蘇鉄(赦免花)です。右手奥に回って東側から見るとその大枝はあります。


 

↑ 蘇鉄と郷土芸能演芸場 ↓

 

蘇鉄は太古からある植物で、雄株と雌株に分かれ、雄株には雄花が、雌株には雌花が咲くのですが、この大枝には、雄花と雌花が同時に咲くことがあります。


 

 ↑ ブーゲンビレアと郷土芸能演芸場 ↓

 

2018年に咲きましたが、それ以前に同時に咲くことがあったのは、40年以上前のことでした