末吉小学校
島にある小学校の中で最も古い歴史があります。
↑ 八丈町立末吉小学校140周年記念碑 ↓
1871年(明治4年)平川親義(ひらかわ ちかよし)という人が、長戸路 敦行(ながとろ あつゆき)と島で初めての学校、末吉夕学黌(すえよしせきがっこう)を作りました。
1872年(明治5年)末吉小学校になりました。
2013年(平成25年)少子化による生徒数減少と三原小学校との統合のため閉校しました。141年目の最終年度の生徒数は14人でした。
登龍峠龍壁画
八丈島を一周する「八丈一周道路」(都道215号・八丈循環線)の中でも、この峠の付近が最も曲がりくねった急坂となっています。
登龍峠の名は「天に昇る龍のような道」ということに由来します。この坂を下方もしくは上方から眺めると、あたかも龍が昇天するように見えるのでこの名が付けられたという説明もあります。
が、現在では道路脇の樹木がうっそうと生い茂っているため、上方や下方から眺めても蛇行する道の全体を見渡すことは困難です。
三根地区、末吉地区それぞれの登龍道路区間の途中には、登龍峠の名前にちなんだ「龍」の壁面オブジェがあります。
登龍峠(のぼりょうとうげ)
八丈町にある峠。国土地理院の表記では登竜峠であるが、一般には登龍峠と書かれることが多い。
名称の由来は、この道を下から見ると龍が天に登るかのように見えることからという。
八丈島の南東部に位置し、東白雲山の北北東にあたる。東京都道215号八丈循環線が通過しており、前後は曲がりくねった坂道となっている。
頂上には展望台が設けられており、八丈富士、神止山、八丈小島、底土港(神湊港)、三根市街が一望できる。
晴天時には三宅島、御蔵島まで見渡せる。その優れた眺望から「登龍峠の展望」として新東京百景のひとつに選定されている。
登龍峠の碑
展望台内の石碑には、「この峠に立つ人 その幸運 まさに 登龍の如し」と書かれている。
幸運をもたらしてくれる峠、自分の足で登った方がより大きな幸運になるかもしれない。
この峠に立つ人 その幸運 まさに 登龍の如し
↓ 登龍峠の碑文
新東京百景
「都民の日」制定30周年を記念して1982年10月1日に東京都によって選定された100の風景である。
都市や自然の景観、名所や旧跡といった都内の景勝地が、東京都民の公募のもとに選ばれている。
↑ 新東京百景登龍峠展望台 八丈富士と八丈小島 ↓
また、新東京百景を描いた絵画も発表された(江戸東京博物館所蔵)。
第二次世界大戦前にはこれとは別の新東京百景を冠した版画作品も発表された。
↑ 展望台からの眺望 八丈島空港と八丈小島 ↓
島嶼部(11ヶ所)
番号 名称 所在地
90 三原山 大島町
91 波浮の港 大島町波浮港
92 登龍峠の展望 八丈町三根
↑ 底土港 ↓
93 南ヶ山展望台 利島村
94 羽伏浦海岸 新島村大字羽伏浦
95 カンビキ山 新島村式根島
96 天上山の展望 神津島村字天上山
97 ひょうたん山 三宅村坪田
98 御代が池 御蔵島村
99 大凸部 青ヶ島村
100 南島 小笠原村
↑ 底土海水浴場付近 八丈富士をバックにガイドさんが撮ってくれました ↓
版画集『新東京百景』は、昭和初期に関東大震災により甚大な被害を被った東京の復興の姿を、創作版画の版画家たち8人によって写し出した一連の作品集である。
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卓上社(1928年結成)のメンバー
恩地孝四郎(1891年 - 1955年)
諏訪 兼紀(1897年 - 1932年)
平塚 運一(1895年 - 1997年)
川上 澄生(1895年 - 1972年)
深沢 索一(1896年 - 1947年)
藤森 静雄(1891年 - 1943年)
逸見 享(1895年 - 1944年)
前川 千帆(1888年 - 1960年)が1929年から1932年にかけて会員限定で1作につき50枚を配布した。
1932年までに100作が出版されたが、全作が収められている例としては東京都現代美術館所蔵のものがあり(他にはアメリカのカーネギー美術館、ロンドンのコレクターが所有している)。
↑ 二か所目にある登龍峠 龍壁面オブジェ ↓
これを元に1978年に平凡社が復刻した『新東京百景』の愛蔵版が330部限定で販売された。
また、新版画家の川瀬巴水が1936年頃制作した『新東京百景』もあるが、こちらは6作で未完結となっている。
登龍峠龍壁画壁画オブジェ 三根地区側
末吉側の龍を雄とし 三根を雌と区別したので爪を赤に