福井から妻籠宿へ4日目・8(写真は全て2015年10月21日撮影)

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妻籠宿本陣・南木曽町博物館
妻籠宿本陣は、大名などの宿泊所として幕府に指定されていた施設で、島崎藤村の母の生家でもあり、最後の当主は島崎藤村の実兄で、妻籠から伯父の所へ養子にきた広助でした。

宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至まで本陣、庄屋を兼ね勤めました。

島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に来ています。
平成7年に復元された本陣。江戸時代後期の間取りで建てられています。

町並み保存について
中山道妻籠宿は、昭和40年代始め日本全国が高度成長期に沸く中にあって、歴史的な景観を守るべく、率先して町並みを守る運動に取り組みました。

そして今日、国の重要伝統的建造物群保存地区の主柱として、また全国街並保存連盟の中核として、町並保存の先頭に立っているのです。

本陣は、 江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。

宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。

本陣の由来については、南北朝時代や戦国時代に遡らせる説もあるが、明確なものとしては、寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を本陣役・本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。

本陣は、行程の都合などを勘案して指定された。そのため、宿泊に応じられる本陣のほか、小休止などに使われる原則として宿泊はしない本陣が指定されることもあった。

宿場町であっても、前後の宿間距離が短い場合などには、本陣が置かれない場合もあった。

また、その街道筋を使う大名家などが懇意としている有力者の家を独自に指定することや(たとえば水戸街道・小金宿では、本陣は大塚家が指定されていたが、水戸藩は独自に日暮家を本陣として指定している)、宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることがあった(たとえば水戸街道・土浦宿では、山口家と大塚家が本陣として指定されていた)。

本陣には宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなくあくまでも謝礼であり、必ずしも対価として十分なものとは言えなかったとされる。

そのため、本陣の指定に伴い、そこの主人には苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設けることができるなどの特権が認められた。

一方で、それらを名誉なこととして受け止め歓迎する向きもあったものの、出費がかさんだことで没落する家もあった。

特に江戸時代後期になると、藩財政の悪化に伴う謝礼の減額や本陣である問屋や庄屋としての家業(商業や農業など)の不振による経営難によって破綻する例もあった(もちろん、没落の理由はさまざまであり、本陣としての負担のみが原因ではなかったが)。そのため、時期によって本陣が指定変えされたケースも少なくない。

文久の改革以後、参勤交代の形骸化が進み、明治維新によって参勤交代が行われなくなると本陣は有名無実となり、明治3年(1870年)に明治政府より本陣名目の廃止が通達されて制度としての本陣は消滅した。

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