福井から妻籠宿へ4日目・7(写真は全て2015年10月21日撮影)

宿場では、急を要する手紙などを運ぶ場合、早馬によるリレー形式で繋いでいく方が効率的であり、それを行うには中継ぎの場が必須であった。

また旅行者にとっても宿泊所や休息所がなければならない。これらの役割を果たすために駅伝制が導入され、駅が全国に設けられた。

日本でもこれに倣って古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、各国の連絡のために東海道・山陽道などの官道を整備し、駅(駅家)を各所に設けた。

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中国同様、駅は官道を騎乗で往来する人々に便宜を図ると共に、駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たした。

大化の改新の際の詔や大宝律令で重要事項として駅や駅に置く馬などの規定に触れており、実際に平安時代の法令集である『延喜式』では、各駅に配置する馬の頭数が事細かに記されている。また陸上に限らず、渡し場である「水駅」も存在した。

これら駅伝制による「駅」の制度は平安時代末期の律令制の弛緩に伴い衰退し、「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられた。

しかし制度思想そのものは後々まで引き継がれ、江戸時代に整備された五街道制度にも生かされている。

なお、リレー形式の長距離走を「駅伝」と呼ぶのは、駅(中継所)から駅までを伝えるという駅伝制にちなんでのことである。

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↑ 光徳寺 ↓

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↑ 観光案内所 ↓

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↑ 民宿 ↓

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↑ 妻籠郵便局・現金輸送車 ↓

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伝馬(てんま/でんば)は、古代から近世までの日本に見られた使者や物資を馬で運ぶ交通制度、またはそれに使われる馬である。伝馬制(てんませい)、駅伝制(えきでんせい)とも呼ばれる。

古代においては、7世紀後半頃に律令制の中央・地方間の情報伝達システムとして駅制あるいは駅伝制と呼ばれる交通・通信制度である伝馬制が整備された。

律令時代の移動伝達の構想として、駅路と伝路からなる交通網を維持し、それらを利用した駅伝制を整備することにより中央集権を機能させようとしたことが伺われる。

すなわち大化2年(646年)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあり、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備を行うことを意図したようである。

その後、おそらく10世紀以降に古代伝馬制は廃れたが、中世に至り荘園領主や地頭らが居住地と自領を結ぶ伝馬を置きはじめた。

戦国時代には、戦国大名らが自領内の街道に宿場を設け、本城と支城などを連絡する伝馬を設置した。近世に入ると、江戸幕府は諸街道を整備し、各宿場に伝馬を常設させた。

この駅伝制は、 8世紀に制定・施行された律令において詳細な規定がおかれた。大宝元年(701年)の『大宝律令』の厩牧令(くもくりょう)では、駅の設置は大路30里(約16km)毎に一駅が原則であった。

駅家に置く駅馬は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられた。

駅馬を使者が利用するには、駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行する必要があり、駅使(えきし)とよばれた。

駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示され、剋が多ければ利用できる馬数も多くなった。

駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式があった。

8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は使者本人の口から文書の補足が必要な場合などに派遣されていた。しかし逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となった。