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本日も唐津ぶらぶら日記ではなく、唐津つれづれ日記②『唐津城築城400年記念 唐津城の藩主たち』 “かいつまみバージョン
”をお送りしたいと思います
『唐津城築城400年記念 唐津城の藩主たち』・・・・・・
大久保加賀守忠職 編
大久保忠世は秀吉の小田原攻めに家康の先鋒を努め、家康の江戸入府のとき小田原城に封じられました。
忠世の子忠燐(ただちか)は慶長18年(1613)庇護していた大久保長安の死後に起きた「大久保長安事件」に連座し改易となった。忠燐の孫忠職(ただもと)は事件に連座しているが幼少であったことと、大久保家累代の功績を考慮した将軍に配慮により罪は蟄居にとどめられ、寛永2年に赦免になりました。
忠職が8才の時、父忠常の遺領、武蔵騎西2万石を継ぎました。寛永3年(1626)従五位の下、加賀守に叙任され、寛永9年(1632)美濃加納城、寛永16年(1639)播磨国明石城と転封し、慶安2年(1649)明石城より初めて徳川譜代の大名として46歳で唐津藩主となりました。当時唐津藩は、寺澤兵庫頭堅高(2代)が江戸において逝去し、嗣子がなく、寺澤氏は改易となり唐津藩は幕府領となっていました。忠職は旧寺澤領を引き継ぎ、唐津を中心に、怡土郡(現福岡県糸島)を併せ8万3千石を領しました。
忠職は、転封にあたって大小庄屋を引見し、各村より一貫文づつ献上させ、焼物師には御茶碗、鑓柄師(やりえし)には御鑓(やりえ)の柄を献上させたりしました。
また、家臣に対しても、それまでの地方知行を、蔵米知行(藩が年貢を収納して俸禄米を支給すること)へと移し、実際の知行国地をあてがうことを縮小したりしました。
村方に対しても寺澤氏のときに一時的に設けられた、庄屋を補佐するものとして、新しく農民の中から名頭を恒常的に各村から選任したりしました。
忠職は21年間藩主の座にあって藩政の基礎をつくり、領民から慕われました。
(唐津市 からつ歴史考 引用)
以上、大久保忠職についてでありました。
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