今回の中辺路歩きは、ここが終着点となる。

 

 大斎原(おおゆのはら)は、3つの川が交差する中州に広がる聖域。先ほど参拝した熊野本宮大社も元々はここにあったが、明治22(1889)年に起きた大洪水ですべての建造物が倒壊したため、現在の場所に移したという。案内板の説明によると、江戸時代までは中州へ渡る橋が架けられておらず、参拝者は熊野川の水で身体を清める禊を行っていたらしい。川に入る時に足を濡らすことから「濡藁沓(ぬれわらくつ)の入堂」と呼ばれていたそうである。

 このような伝統的な作法こそ、残しておくべきではなかったかと少々もったいない気がした。

 

江戸時代に描かれた本宮の全景。「子宮の形をしている」との一文も記憶するが、私には独立したひとつの国家や文明遺跡のように映った

 

田んぼの先にそびえる日本一の大鳥居。獣除けネットは農村のセコムだ

 

 大斎原を広く見渡せる場所はないかと、土手に上ってみた。周囲にはのどかな田園風景が広がっており、トラクターが代掻きをする風景は、同じく中世に宇佐神宮の荘園として栄えた田染荘(豊後高田市田染小崎)に似ていた。

 土手沿いだと入れないみたいなので、下へ降りて参道をすすむ。

 

景観を大事にした立札風の案内板はお手本にしたい

 

 参道沿いの立札に目をやると、どうやらここの田んぼではもち米をつくっているようだった。「熊野鼓動」というのが提携先のようで、帰ってからネット検索してみた。本宮名物という「窯餅」は、別名「内緒餅」とも呼ばれ、門外不出の製法と言いつつ、HPによれば蒸さずに炊くことで独特の食感が生まれるらしい。

 

 有限会社熊野鼓動 「窯餅」ランディングページ

 

修験道の衣装をまとった先達は現在も健在で本宮近辺で良く見かけた

 

 33.9メートルの高さを誇る大鳥居をくぐり、境内に入る。不思議と現本宮参拝時のような聖性は感じられず、どちらかというと別府公園のような爽やかなスポットだ。

 

世界遺産の記念碑。ここから先は写真撮影禁止区域となる

 

 本殿があったと思われる境内は流石に広く、この場所に十二神を祀り、第2次世界大戦が終了するまで「熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)」というのが正式名称だったようだ。この場合の「坐」と「座」の使い分けは分からないが、熊野座神社という名前は九州にもあり、近年パワースポットとして人気の高い熊本県高森町の上色見熊野座神社もここから勧請したのではないだろうか。

 

 他にも一遍上人の石碑(南無阿弥陀仏の「弥」の字がキュート)もあったり、自然保護地域からなのか分からないが聴いたことのない動物(鳥?)の鳴き声が響いていたりして、異国の遺跡公園を散策しているような気分を味わえた。

 

 本宮跡は河原へと続いていて、今では静かな流れの熊野川へ近づいてみた。

 

内田樹・釈徹宗両氏が賛美する大斎原の河原には無数の石積みが見られる

 

 熊野古道の来訪にあたり参考にした『聖地巡礼 熊野紀行』では、この地について次のように表していた。(以下、引用)

 

 「とにかくニュートラルな場所ですね。そのように感じます。古代の日本では、しばしば山は死者の場所です。そして対照的に海は生命の根源。つまり海のエロスに対して、山のタナトス原理みたいなものがある。しかし、ここはエロスでもタナトスでもない、ニュートラルです」と。

 

 確かに、山岳信仰や修験道の聖地といいつつ、生と死どころか厳しさも優しさもない「どっちとも思える」ニュートラルな雰囲気である。社殿が残っていたら随分違うのかもしれないが…ここではマスクをした狛犬や八咫烏もいないので、晴れた空を見上げながら深呼吸して清々しい気持ちに浸ることができた(笑)。

 

 宿のチェックインまで、もうしばらく時間があったので「和歌山県世界遺産センター」の常設展示や観光協会のある「世界遺産熊野本宮館」でインフォメーションセンター運営の様子を見に行ってみた。

 

スタッフはかなりの在籍数でカウンターでは多言語対応も行っていた。プチ図書館コーナーや展示ゾーンのほか、大分ではまだ見ぬ三面型ビジョンで動画鑑賞もできる

 

この旅もそろそろ終わりを迎えている気がして、大斎原の河原で珍しく記念撮影

 

 私の中辺路はこれにて終了。

 道を間違えたりしたものの、無事に歩き終えてひと安心である。

 

 

 

 

 でわ!