ライカというカメラのことは、カメラに興味ない人でも知っている人は少なくないだろう。


ほぼ金属でできているために鉄アレイのように重いそのカメラを肩にかけて、ユーラシア大陸を一年以上旅したことがある。


帰国した時、巻き上げレバーを回すとジャリッと砂を噛んだ音がするようになっていた。その音が長かった旅の道程をセンチメンタルに思い起こさせた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ライカM6を売ることにした。今現在持っている唯一のライカ製レンズのズミクロン50mmを付けて。


新宿のM社の買取センターには他に誰も客がいなくて、病院の待合室のような重い空気が漂っていた。


窓口の女性に「番号札を取ってお待ちください」と言われたので、タブレットを操作して札を受け取り、座って2秒で番号を呼ばれた。


対応してくれたのはさっき番号札を取れと言った女性だった。ここに来ているからには理由は明白なのだが、「カメラを売りたいんですけど」と言うと、女性はゴミを眺めるような目で私を見て、売りたいものをここに出せ、と言った。


ライカとソヴィエト製のレンズ2本、フィルター類、ついでに持ってきたコンパクトカメラをそこに出すと、「フィルターとコンパクトカメラは買い取っていません」と、秒で突き返された。


申し込み用紙が差し出され、早口で説明を受け、何を言ってるかほぼ聞きとれなかったのだが、太枠の中を埋めるということは理解できたので、震えながら記入した。


「結果は18:40になりますが今日来られますか?」と聞く彼女の眼からは「閉店直前に来るんじゃねえぞ!明日にしろよ!」という強力な圧力を感じたのだが、どうしても明日、現金が必要だったので「今日来ます」と言った。


女性は苦々しい表情で「19:00閉店です!」と吐き捨てた。私のことを盗品を売りにきたやばいオヤジだと思い込んでいるに違いない。


結果が出るまでには2時間以上あった。5階から地上に降りて、さてどこで時間を潰そうか、と考えた。


一階には新品のライカを売る宝石店のようにキラキラした店があり、金持ってそうな坊主頭の中国人があれこれライカを触って店員と話をしていた。


花園神社に行こうか、と思った。


ライカを買ったばかりの頃、花園神社の鳥居を撮影して、レンズの解像度の高さと、鳥居の赤の発色に感動したことを思い出したのだ。





花園神社も外国人だらけだった。いや、もはや私以外全員外国人だった。皆あちこちでポーズをとって写真を撮りあっていた。


いたたまれない気持ちになってすぐに神社を後にした。


2時間はひどく長い時間だったが、約束の時が近くなると買い取りセンターに向かう足が重くなった。


ラダックの要塞のようなティクセゴンパも、バラナシのマニカルニカガートに何本も上がる死人を焼く煙も、シャイヨー宮から見たエッフェル塔も、10ヶ月かけてアジアを横断した後に辿り着いたボスフォラス海峡も、数え切れないくらい多くの旅人たちもこのライカで撮影した。


もう2度と会えない大好きだった人も。


買い取りセンターの女性は「これも買い取れないレンズでした」と感情のない声で言って、ソヴィエト製のインダスターも返却してきた。


ライカはファインダーの清掃の必要があると40,000円が引かれ、DRズミクロンに至っては内部がだいぶ曇っているということで25,000円にしかならなかった。


ソヴィエト製のジュピターも合わせて170,500円。


それは思い出の価値とは到底釣り合わなかったが、明日支払わなくては行けない金額は思い出よりも重かった。


私は女性の顔を一瞥もせず「売ります」と言った。




ライカを買った日の夜、嬉しさのあまり枕元に置いて寝た。そんなことをしたのは後にも先にもライカだけだった。



コダックの感度200のフィルムを装填して最後に撮ったのは新宿のどんよりと曇った空だった。


フィルム巻き上げレバーは音を発さず、驚くほどスムーズに回った。それはライカが私の未練を断ち切るように、敢えて惜別の台詞を言わなかったかのように感じた。




「あのさ、バックパッカーに上も下もないんだから、敬語で話すのやめようや」


小雨降る中華街のクイッティアオ屋台で言われた一言がずっと今も脳裏に残っているし、その言葉を言った彼の印象も四半世紀経つ今も変わっていない。


彼と初めて会ったのは、ベトナム、フエのビンジュオンでだった。


ビンジュオンはその頃東南アジアで一番有名な日本人宿だった。それまでも何度かバックパッカースタイルの旅をしてはいたのだけど、ホンモノのバックパッカーに会ったのは、ビンジュオンが初めてだった。


そのバックパッカーたちのリーダーとも言える存在だったのが、「牛」ことマツさんと、彼、今回「沈没とマラソン」を寄稿してくれたモチさんの2人だった。


盟友とも言える2人だけど、性格も生き方も旅の仕方も全然違う。モチさんは文学的で、思考の先に行動があり、マツさんは行動することで思考が生まれるようなタイプだった。そして、私はそんな2人のやり取りを見ているのが好きだった。


この文章の冒頭に書いたようなことを言ったのはいかにもモチさんらしく、突然マラソンを始めて、その行動こそが彼そのものを象徴していることはいかにもマツさんらしかった。



モチさんがカオサンから去った日は私のバックパッカーの旅の中で一際印象に残っている。


カオサンのビール屋台にはいつもの仲間が集まって、モチさん最後の夜はとても賑やかだった。チャンプ、キャップ、バイヨン、カッキー、岡ちゃん、いちこさん、みんなビンジュオンの仲間だった。


当時のカオサンは午前2時までしか酒の提供ができなかった。しかし、そこはタイらしく、こっそり酒を出してくれる店があって、河岸を変えた後もまだ5、6人残っていた。


モチさんはこっそりマツさんのビールにベトナムの品質の悪い蒸留酒「ルアモイ」を混ぜていた。そのせいでマツさんは完全に泥酔し、飲み屋の席でピクリとも動かなくなった。


空港行きバスの時間が迫り、モチさんは準備のために宿に帰った。マツさんは相変わらず動く気配がない。仕方なく私とチャンプ、キャップ、バイヨンの4人で神輿のように泥酔したマツさんを担いで、モチさんのバスが来る場所まで運ぶことにした。早朝と言ってもまだ暗いカオサンを東の端から西の端までマツさんを担いで運んだ。


モチさんも結構飲んでいたと思うのだけど、酔った素振りを一切見せず、凡そバックパッカーには似合わないくらい爽やかにカオサンから去っていった。


記憶が確かならモチさんはマツさんに「またな!」と声をかけてバスに乗ったのだけど、マツさんは相変わらず夢の中で、長旅を終える盟友を見送ることは出来なかった。


そして四半世紀が過ぎて...


私たちはまた早朝のカオサンに立った。今度はあの朝とは逆に西の端から東の端へと歩き、それはまるで丁寧に時間を巻き戻す作業のように感じた。


その頃マツさんが泊まっていたPCゲストハウスを見にいった。20年以上前、既に床が抜けるようなボロ宿だったPCはまだそこに残っていた。


私たちは本当に時間を遡ったのかもしれない。


素晴らしい時間だった。もう人生に思い残すことはないとまで思った。



冒頭の言葉を言われたその瞬間から、旅仲間に敬語を使うのを止めた。でも、2人のことは今だに「マツさん」「モチさん」と呼んでいる。


それはあの時ビンジュオンで、深夜特急に憧れただけの俄旅人だった私をバックパッカーにしてくれた彼らへのせめてもの敬意だと思っている。







沈没とマラソン

(最終回/全14回)

望月竹一


 二〇二五一〇一六


 昨夜は深更に及ぶまで暴れていたわけだが、朝八時にはきちんと起きていた。中庭におりていってみるとまだ誰も起きてきていない。おれは夕方の空港バスを予約したく、レセプションに問い合わせると、宿でピック・アップしてくれるサービスは今はやっておらず、S1の空港バスが宿の近くまで来るから、とコピーされた略図にボールペンで印をつけて渡してくれた。牛たちをラインで呼び出して朝飯に出かけた。二日間朝飯を世話になったカオマンガイ屋からほど近い麵屋でワンタン麵を注文した。牛とAさんはまたお土産を求めて(今度はバッグだと)出かけてしまい、Oは両替へ。おれはカオサン周辺を散歩したあと宿に戻ってチェックアウトした。


 昼飯はみんなで食べようと宿の中庭でOを待ったが、チェックアウト期限の一一時半を過ぎても帰ってこない。一二時過ぎにレセプションのねえさんが心配して、あなたのお友達どこにいるの、と訊いてきたから、もうすぐ帰ってくるよ、と答えておいた。Oは一二時半前に帰ってきたのだが、とりたてて追加料金もとられなかったというから、なかなかいい宿だった。


 牛とAさんとラインで連絡をとって中華街で落ち合うことにした。バスで向かったのだが渋滞にはまって時間がかかった。やっと辿り着いて、Oがラインにグーグル・マップのリンクを張って現在地を知らせた。牛たちはそれを頼りにやってきたが、あのごちゃごちゃした中華街で落ち合えたのはグーグル・マップという便利な文物のおかげであった。


飯を喰うところを探し始めたのだが、Aさんの物欲はまったく衰えなかった。路地に面したお菓子屋に寄り、そのあとスーパーにも入った。やっとのこと落ち着いた飯屋は道路にテーブルを並べた、昔からのバンコク・スタイルであった。こうした道路の占拠はいま、おカミのお達しでとめられている筈なのだが、中華街は力が及びづらいのかとにかくおれたちは露天で爽快に飲み喰いをした。


給仕のおばちゃんはよく見るとミャンマー人が顔に塗るタナカをうっすらと施しており、ミャンマー人か、と問うと、そうだ、と頷いた。見たところ言葉もあまり上手でなく、ただつくられたものを持ってくるだけの最底辺の仕事なんだろうな、と少し暗い気持ちになった。クーデター以後勃発した内戦でタイに流れ着いて、最低の仕事をする彼女のようなひとが結構出ているらしく、先日腹を痛めたタイスキ・パーティーのときもミャンマー人が露店の店番をしているのを見た。


 王宮を見たことがないというAさんのために中華街から移動することにした。タイ語ができるOがトゥクトゥクに声をかけると、残念ながらワット・ポーという言葉が通じなかったようだった。バンコクも正式名称はずいぶん長ったらしい名前だし、口語の世界では外国人のうかがい知れぬものがあるのかもしれない。気分を入れ替えてOは再チャレンジ。今度はつかまえられたがおれがこのまえ中華街から同じ距離を移動したよりちょっと高い値段で妥結してしまった。これはひとえにOがおれより人がいいというのもあるが、どうも顔が日本人顔で、でっかい目が炯々と光る国籍と年齢不詳のおれと比べてなめられやすいというのがあるのではないかと思った。



 ワット・ポーの前でトゥクトゥクをおりて隣の王宮まで歩いた。Aさんはただちょっとみてみたかっただけのようで、外からきらびやかな建物たちをうかがうだけであった。またカオサンまで移動して、カオサン通りを端から端まで歩いて宿まで辿り着いた。


 家に帰り着くまでが旅かもしれないが、一つの区切りが近づいていた。おれは預けてあったザックを取り戻して、スワンナプーム空港へ。ほかの三人は夜行バスに乗ってラオスへ。三人は裏カオサンのとこの角まで一緒に来て、おれがS1のバスを拾うまで見送ってくれた。席に座って背もたれにもたれかかると、おれはすぐ眠ってしまった。フルマラソンをやるようなやつと旅するとこの上なく疲れる、と思った。


 目が覚めたときはもう日が暮れて真っ暗だったがまだ空港に着いていなかった。渋滞に巻き込まれて一時間はゆうにたっていた。免税をゆっくり見たかったのであまり面白い展開でなかった。結局スワンナプームに着いたのは七時半過ぎで、大慌てで発着状況を確かめるとベトナム航空は遅延していた。間に合ったが、心配が一つ消えて、また一つ生まれた。おれの乗るベトナム航空はサイゴンで一時間半しかトランジットの滞在時間がなかった。サイゴンまでたどり着けたとしても、サイゴンから成田までの便に乗れるかどうかわからない。乗れなかったりしたらどうなるのか。腹を括るほかないようだった。


 スワンナプームの発券や出国手続きはスムーズで望み通り免税を見る時間もあったのだが、いざ目にしてみるとどれもみんな高過ぎ(ハンバーガーなんて二〇〇〇円くらいする)で、食指を動かされなかった。余ったバーツを日本円に替えたのだが、千円に満たない端数はおつりとしてバーツで渡されるのでなんだか損した気持ちになった。レートが悪くても日本で替えた方がいいかもしれない。いつもバンコクに来るときはドンマン空港が多く、スワンナプームを使うのは実は四半世紀ぶりで、構内を探検しても見覚えのないものばかりだったが、待合室が狭くてひとが溢れていたのには閉口だった。


 搭乗時間は一時間遅れた。安い航空券ではあったが、LCCではなかったのできちんと夕食が出た。青菜と鶏肉の炒めたものがなかなかおいしかった。細長い米を食べるのもしばらくなくなるなと思った。バンコクーサイゴン間は一時間半ほどで、機内食を食べるとすぐに到着してしまった気がした。


 サイゴンでの乗り継ぎはあっけなかった。一番安い席にしたせいで、急いでおりる人たちの後について早足で入管のところまでやってくると、


——ナリタ、ナリタ


と紙を持って立つ女の子の人が二人並んでいた。たすかった。誘導員がいるということは間に合うということだろう。詰まるところ成田行きも遅れているのだ。


——イエス、ナリタ


といって近づくと腕にLAST MINUTE PASSENGERというシールを貼ってくれて、インターナショナル・トランスファーの方へと誘導された。


 タンソンニュットでも少し時間をとられた。免税を見る元気もなかったがそれは周囲の人も同じようであった。搭乗が始まって席にp座り込むとそのまま眠りこんでしまった。


 終章


 眠っていたので、着陸までの時間はあっけないものだった。目が覚めてすぐガタンと飛行機は着陸し、ほかの乗客は我先に頭上の荷物に取りかかっていた。入管ははんこを押すだけだが、税関は気が重かった。このよく光る目が悪いのかどうかおれは税関とあまり相性がよくなく、何度か荷物をひっくり返されたことがあった。牛が、バンコクにいただけで匂いが染みついていそう、とラインしてきたが、バンコクのストリートでは解禁された大麻のお店がかなりできていて、前を通るだけで匂いがした。その匂いが染みついていて、犬が誤解したら、かなり面倒なことになる。税関の職員は若い精悍な感じのひとで、多少威圧的な感じもあったが、何事もなく通してくれた。


まだ九時前で朝早いといえた。藤沢まで直通のバスもあったが、一番安い移動手段を使うより倍も高かった。一番安い京成線の急行を使って上野まで出るルートを撰んだ。


 別に上野で何をしようという考えもなかったが、いろんな民族の料理を楽しめる街となったアメ横や西郷さんを見たいなと漠然と思っていた。別に西郷さんが好きというわけではないのだが、アジアを旅すると、西郷さんが夢見たアジアの姿と現在の日本について考えてみたくなるのだった。上野に着いてコイン・ロッカーを探してうろついたが、残念ながらあいているところを見つけられなかった。おれは大荷物を背負いながら、アメ横の中に入っていった。喉が渇いたのでコンビニを探して、コーヒーを買った。そこから不忍池に廻り、上野の山の方に足を向けた。西郷さんの前にいって、シャッターを切った。


 重い荷物を持ってこれ以上うろうろするのはつらかったので、山手線で新宿に向かった。またコイン・ロッカーを探し歩いて、大江戸線の改札にほど近いところでやっと見つけた。昼に差し掛かりつつあったので、携帯でいけてるラーメン屋を探した。しょうゆラーメンで評価が高いところを見つけて、いってみた。二週間ぶりの日本食はしょうゆラーメンだった。


 そのあと西新宿に廻って都庁に向かった。高いところなら東京タワーでもスカイツリーでもかまわなかったが、都庁の展望台はなんといっても無料であった。白く光る関東平野を見渡して、この二週間通り過ぎた土地のことを考えた。



 日本車はなおどこに行っても出会うことができたが、電気屋の看板は中国か韓国のものと様変わりした。三〇年の停滞といわれる中でアジアにおける日本のプレゼンスはまちがいなく退潮していた。それは寂しいことであったが、いいことなのではないかと思う。明治以来、日本が一番、特別だという考えがどれほどの不和を生んできたことか。日本人も優秀かもしれないけれども、アジアのほかの民族だって負けてはいないことは最近のアジアの興隆でよくわかってきた。一番大切なのは平和なのだ、ということはカンボジアの変化がよく語っていた。タイはなかなか熟した文化を見せてくれた。東京は特別な場でなくなりつつある。各国の人たちを分けるものなど、能力などというものではなく地政学的な位置とその土地その土地の風土といったものに過ぎないだろう。ぼくたちは違うけどそんなに違わない、ちがうけどおなじなのだ。


 ただ、旅行者としては、まだ貧しかったころのアジアの方が個性的で面白かった。パーソナル・コンピュータによる産業革命が始まったばかりの四半世紀前は、何でも適当に運用されていて、融通が今よりきいた。そんなことをいってもスマートフォンを中心にした現代のテクノロジーを面白がって使っているのだから、旅の楽しみ方が変わっただけ、というのが本当のところだろう。

 

 また、おれは旅をするだろう。あたりまえの時間を長く続けていると、なにかそれを否定するような時間を持ちたくなる、おれやおれたちの常識を引っ掻き回してくれるひとたちに出会うために、である。


〈完〉




沈没とマラソン

(第13回/全14回)

望月竹一


  I 二〇二五一〇一五


 昨日の朝食べたカオマンガイの露店でまた朝飯を食べた。なかなかうまい店で、昨日は蒸した鳥であったが、今度は違うメニュー、油で揚げた鳥を飯に乗っけてもらって食べようというのが再訪の理由であった。また公園でみんなで食べたのである。食べ終わって、さあ今日はどこに行くのかな、と思っていると、Oが連れていったのはまた船着き場だった。車だとバンコクは渋滞だらけで苛つくけれど、川風が吹き込む乗合船は大歓迎だった。


ラチャウォンの船着き場というのが目的地で、昨日腹を痛めたヤワラーの南であった。最初なんでこんなところ歩いているのかわからなくて、ウォーター・フロントの再開発地みたいなところだと思っていた。この直感は当たっていて、むかし栄えていた街が廃れてしまったあと、そこを改装してお洒落なカフェやらおいしい店やらウォール・アートやらが登場した街のようであった。


——ここは何というところなんだ?

——ソンワット。



Oは細い路地におれたちを誘った。緑のビルに入っていって、細い階段を三階まで上ったウッドブルックというカフェが目的地だった。チャオプラヤ川が一望に見えて、遠くには昨日いったアイコン・サイアムも見える。飲み物も洒落ていて、おれは「ゆずブラック」というやつをたのんでみた。タイにゆずがあるのか、しかもそのまま「ゆず」というのか、という疑問が注文の理由だったが、底の方に黄色くゆずのシロップが溜まり、上の方に黒くコーヒーが乗った立派にゆずの香りのするアイス・コーヒーだった。



 道はタラートノイという地域に差し掛かっているようだった。この辺は町工場の中に落書き(ウォール・アートともいう)や洒落た店が点在しているような印象で、Oはまたそんな店の一軒に入っていった。マザー・ロースタリーというその店は入ってすぐ工場の廃材が転がっているような不思議な店で、矢印に従ってあがっていってみると、痩せたねこが寝ていた。Oはここでコーヒー豆を買いたかったようだが、東京より高いとこぼしていた。ちょうど、通り雨が降り出したので、おれは内装などをみながら時間を潰した。


 タラートノイもだんだん外れになって、工場ばかりになりはじめた。バスに乗ろうとOとAさんが話していて、どこに行くのかと思ったらおれが行こうと推していたジム・トンプソンの家だった。タイの伝統文化を感じられる大変素敵な場所だと思うのに、みんないったことがないそうで、最初はおれも期待しないでいったから、たぶんこの名前がいけないんだなと思った。


Oにいわれるままバスを降りて、運河の横の歩道を歩いてジム・トンプソンの家に着いた。最初に目に飛び込んでくる赤い建物と庭園の緑がとても美しかった。葉の茂り方、枝の伸び方がよく配慮された庭園で、これは伝統的なものなのだろうかと思った。カフェやレストラン、土産物屋、オリジナル・シルクのお店などが敷地内にあって、各自勝手になかを散策していたが、日本語で館内をガイドしてくれるというので時間になると入り口に集まった。華やかな感じの美人がガイドさんで、素晴らしいアート・コレクションや建物を説明してくれた。牛たちが執念を燃やしたサンカローク焼きのアンティークなどもあった。



 東南アジアに行くとおれはなぜかシルクが欲しくなるのだが、ジム・トンプソンはシルクで財をなしたひとであったから、そのオリジナル・シルクの店に興味津々であった(お値段が高くて手が出なかったが)。お土産に燃えるAさんも見ていて火がついてしまったらしい。ネットでジム・トンプソンのオリジナル・シルクのアウトレット・ショップを見つけてきて、次の目的地はここということになった。


スクンビットを東へ。バスでずいぶん長いこと進んで、牛の携帯の示すシルク・ショップについた。五階建ての大きさで、スカーフやバッグ、洋服ばかりではなく、ここでは生地を計り売りしていた。Aさんは「かわいい」バッグを見つけたらしく、写真を撮って娘にラインし、欲しいかどうか訊いている。牛はあまり興味がないらしく階段の当たりで携帯を見ている。おれは考えてみれば昼飯喰ってなかったことに気付いて晩飯は何がいいか考えはじめた。牛も同じようであったらしく夜市に行きたいと調べていたらしい。


最初はラチャダーの夜市にしようかと考えていたが、Oにひとでいっぱいだよととめられ、あらたにトンサイ・マーケットというバンコクに東の果ての夜市を見つけてきた。BTSに乗って四個目の駅でおりてすぐ、白いテントがいっぱい張られその中に屋台があった。中に入っていくとテーブルと椅子が並んでいるところがあり、近くでビールも買えた。各自屋台で好きな物を買ってきてここで飲もうということになり、思い思いの場所に散った。


おれは細かい金を持っておらず、くずしたかったので、高額紙幣でもおつりを出してくれそうな、なるべく高い物を売っている屋台を探した。丸々と太ったエビを焼いて一〇匹ばかりスチロールのはこに入れて売っていたのが二〇〇バーツ(約一〇〇〇円)と高かったのでこれにした。ほかにサーモンの刺身を買い込み、テーブルのところに戻るとまだ誰も戻っていない。ビールを買いにいって、先にいっぱいやった。


このテーブルのある広場にはステージがしつらえてあって、バンドが演奏の準備をしていた。やがて牛たちも戻ってきて、料理をひろげ酒盛りが始まった。牛はバンドの演奏が気に入って講釈しはじめた。おれはJPOPの影響を受けているように思った。牛はいろんなものが入ってる、といった。


おれは今宵がこの旅最後の夜だった。飲んだし、喰ったし、歩いたし、思い残すことがないかと自問すると、昨夜牛たちにとっ捕まっていきそびれたゴーゴーであった。牛は本当はゴーゴーが大好きだが、Aさんのきつい監視下にある。いっしょに行くわけにいかない。このまま友達と飲んでた方がいいだろう。でも……せめぎ合ったあげく、おれは牛たちを置いてトンサイ・マーケットを出た。


 BTSに乗ってチッロムまでいってバスに乗り換えてカオサンまで帰ってひと息ついて、今度はタクシーに乗ってナナ・プラザへ。時間は一一時を廻っていた。レインボーというのが若いころおれたちが通ったお店で、今もそのお店はナナ・プラザにあってどうしてもそっちへ足が向いてしまう。レインボーはナナ・プラザに五店舗もあって、そのうちの二号店に入ってみた。


中程の、ステージを見渡せる席に案内された。踊り子たちはなかなか陽気で刺青をした娘がおおかった。金をばらまくような客はおらず、注文したコーラを静かに飲んだ。おれの遊び方は気の進まない娘を無理に呼ぶことはない。視線がぶつかり探り合いがあり、微妙な駆け引きがあって、来るものを撰別しようというのである。何人か、用ありげに目の前をうろついたり、声がかかったりしたが、どうにも踏ん切りがつかなかった。そうしているうちにステージの女の子はいれかわりおれは決め手がなく……と長っ尻で時間だけを浪費する悪循環に陥りはじめた。おれは席を立ち店を変えることにした。


 次に行った店は先日Oと二軒目に行った店であった。このまえはおとなしめの雰囲気だったが、女の子は日によって変わったりするので、なんともいえない。木曜の夜なのに意外な盛況で、周りを見渡せる席でなく、ステージ脇の目の前の女の子だけが目に入る席があてがわれた。隣の男はせっかく遊びに来ているのに携帯ばかりいじっていて、女の子も声をかけずらそうである。コーラを飲みながら、なるべく遠いところにいる女の子を見ていた。


ひとり、小柄ななかなかかわいらしい娘を見つけた。おれに気付いたかどうか、距離があるのでわからない。そうこうしているうちに交代の時間が来てステージの上の女の子がしたに下りはじめた。あの娘がきたらいいな、そう思っていたが、現れない。探しにいってもいいのだが、おれはそれ以上のことする気になれない。もう一時近かった。今日はだめかな、そう思ったが、まだ未練があった。おれは河岸を変えてまた違う店に行くことにした。


 今度はネットで評判の高い店にした。仕舞いまで一時間あまりとあって客は少なかった。女の子もお茶挽きが多いようだった。がっつきすぎて貰いが少なかったかと我ながらおかしかったが、最後の夜だからせめて楽しく飲みたかった。今度の注文はビールにしてのんびりしていると、槍手のおばちゃんから、時間がないよ、とせかされた。早くいい娘を決めちまいな、というのだろう。


そうはいっても誰かいいのはいるかな、と思っていると、一緒に飲まない、と声がかかった。さっきまでステージの一番前で激しく踊っていた娘であった。大汗かいて、はあはあいいながら、話しかけてくる。美人というのではなかったが、さわやかな感じの娘で、今日はこれでラスト・チャンスのような気がした。これも一つの縁だろうと思った。この日の帰りは三時を過ぎていた。牛たちもトンサイ・マーケットの仕舞いまで長っ尻で飲んで午前様だったらしい。


〈つづく〉




沈没とマラソン

(第12回/全14回)

望月竹一


 二〇二五一〇一四


 バンコクに着いたのは四時前だった。皓々と光る投光機のした、牛は携帯をしばらくいじっていたが、ちょっと様子を見てくるといってプラットフォームを離れた。おれとAさんはその場にとどまったが、なかなか帰ってこない。Aさんがライン通話で呼び出してみると牛は戻ってこようとしてセキュリティに止められ、もめている真っ最中であった。セキュリティを振り切って牛が戻ってから三人で移動した。


おれたちが落ち着いたのはターミナルの中のフード・コートでまだどのお店も開いておらず、眠そうな人がポツポツと座っているだけだった。ここでOが到着するのを待った。こんな時間だから宿に行っても落ち着けない、居場所があるだけ御の字だった。一時間ほど待ってOがやってきた。ピサヌロークで勝手に違う時間のバスに振り替えられて苦労したらしかった。四人でタクシー乗り場に出てみた。


 この時間に着いてしまったひとが結構な数並んでいた。あわよくばバスは来ないか、とも思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。結局、牛がグラブを使った。便利なもので並ばずに車にありつくことができた。しかし、牛たちが大荷物過ぎてトランクに積みきれなかった。運ちゃんはなかなか機略家で溢れた荷物を助手席に積み、後部座席に四人座った。


 今日から二泊おれたちが泊まるのは、スコタイに行く前におれが泊まっていたランプー・ハウスで、例の東屋のようなレセプションに行くと、他の人は二時チェックインだけど、おれだけはすぐに部屋に入れるといわれた。荷物はみんなおれの部屋に入れてしまい、遠慮のないOとAさんはシャワーを浴びた。


 落ち着いたところで、カオサン・ロードに出かけた。おれは仕事をしながらでも休みを取ってちょくちょくやってきていたが、牛は二〇年以上きていないのではないかと思った。カオサン・ロードもあの頃と変わったが、今歩いてもあの頃の仲間とひょっこり会いそうな気がする。長い歳月を経て四人でこうしてやってこられたことはとても感慨深いことだった。朝の光の中、四人そろって記念写真を撮った。


カオサンをはしからはしまで歩いておれたちは左へ曲がった。狭い歩道を壁に体を擦りつけるようにして少しゆくとパン屋が二軒並んでいるのに出っくわす。手前の方のパン屋が結構名のある店で、おれも存在を知っていたのだが、Oによるとここのぶどうパンは普通のぶどうパンとわけが違い、パンのなかぶどうとでもいうべきものである。生地にぶどうが練り込んである訳ではなく、パンをパカッと割るとドサドサどさっと干しぶどうが落ちてくる。Oは話の種にこのぶどうパンを買い込んで動画を撮っていた。


なつかしい場所をひとまわりして、朝飯ということになった。Oが知っているカオマンガイ屋に連れて行ってもらって、向かいの公園で並んで食べた。ボリュームのある鶏肉が軟らかく煮てあって、満足であった。


 バンコク滞在の二日間はタイ好きを自称するOの独壇場であった。とにかく詳しい。ガイドになれる。おれもタイは好きであるが、彼ほどの追求をしない。彼は用を足すだけのタイ語力を持ち、年に一度はタイに足を運び、タイ人の友達もいて、日々ネット情報チェックも余念がない。自分の店ではタイ・ポップを流し、タイのコーヒーを売っている。しかし、タイで解禁された大麻が好きなようでもなく、独身のくせに夜遊びに興味もなさそうで、ストイックにさえ見える。長い付き合いだがこの旅行中、彼の謎はさらに深まった。そんなOがおれたちを次に連れていったのはチャオプラヤー川の乗合船の船着き場であった。


おれたちの言い方でいえば、“カオサンの寺裏”から船に乗れることは知っていて、ワット・アルン(三島由紀夫が小説に書いた“暁の寺”)を見に行くときなど、使ったことはあったが、どれにのればどこにつくのか知っているわけでなく、検札のおばちゃんなどにワット・アルンを連呼し、言われたところで下りるだけであった。バンコクは水上交通が盛んなのだがはじめて、観光地以外の所へ船を使っていくことになった。


 船に乗って、Oが連れていってくれたのはアイコン・サイアムであった。寺裏の船着き場からだとちょっと距離があってワット・アルンの前を横切った。船の上から見るワット・アルンはほのかに緑がかって見え、渋滞がないため大変快適で新しいバンコクの楽しみ方を教えてもらった気がした。そのアイコン・サイアム。着くまでおれはどういう所か知らなかった。よしOは説明したかもしれないが、あまり興味がなかった。ついてみて大きな商業施設であることを知った。



なんでこんなところに、と思っていたら、それはAさんのお土産のためであった。カオサンの何倍も高い(カオサンだってローカルの値段より高いのだが)カット・フルーツや串焼きが並んだフード・コートを抜けて、スーパーのお菓子売り場のような所にやってきた。Aさんはとある一角で足を止め、品物を詳細にチェックしはじめた。


個包装であることが望ましく、ドリアンのように匂いのきついのはだめ、これは本当においしいか……なるほど、おれたちは平気で屋台で飯を喰ったりするが、Aさんがいっしょに働く「普通」の人たちはそういうものを受け付けなかったりするかもしれない。高価でも、衛生的で、品質が高いものというと、こういう所で売っているものになるのだろう。自分が買ってきたお土産が、手をつけられずに晒されていたとすれば、あまり面白くないというのはわかるが、こうやって撰ばれたお土産は心のこもったお土産と言えるのだろう。商品を峻別するAさんはなかなか鬼気迫るものがあった。


 Aさんは納得いくお土産が見つかり、おれたちはアイコン・サイアムを少しずつ上の階へと上っていった。途中牛たちが好きなスポーツ・ブランドのお店に引っかかり、おれが好きなシルクのお店に引っかかり、レートのいい両替のお店を見つけたりしたが、目指したのは六階のパッタイ・ティップ・サマイというお店であった。ここはパッタイ(タイ風焼きそば)の元祖のお店であった。


パッタイというと昔カオサンの屋台で酒のつまみに買った、麵をベタベタに油で浸したような代物で、とてもうまいと言えるもの(それでも安いから食べていた)ではなかった。元祖といい、大きなショッピング・センターの立派なお店といい、ここならおれのパッタイに対するイメージを打ち破ってくれるだろうと思って入った。オムライスのように薄い卵焼きで焼きそばを包んだものが有名とのことで、みんなそれにした。ついでにいうとなぜかここのオレンジ・ジュースも有名とのことだったが、パッタイだけでも結構なお値段だったので皆注文しなかった。


元祖のパッタイも油浸しの焼きそばだった。ここまで来ると、東南アジアの焼きそばは油浸しなのだと理解するほかないと思った。ただ、いい油を使っているのか、それほど気にもならなかったし、喉も渇かなかった。入っていたエビがプリプリでおいしかった。


 炎のお土産探し人Aさんの次の標的は化粧品であった。「なんとか」というタイの化粧品を娘たちが欲しがっているということだった。数ある日本のものを飛び越えて韓国の化粧品がはやりとは聞いたことがあったが、田舎の高校生がそれさえ飛び越して遙かタイの化粧品を欲しがる位の化粧通なのか、と衝撃を持って聞いた。その「なんとか」はワトソンズっていうところにあるっていうの、と携帯で調べがついたのはさいわいだった。


ワトソンズならアジア一円、このタイにもいっぱいあるからだった。このアイコン・サイアムにもあったので早速Aさんはタイ語の化粧品の能書きを携帯で写真に撮って翻訳していた。娘のためにこんなにも一生懸命土産を探す姿というのも衝撃であった。これに比べるとおれは親からでも誰からでも、どうでもいいような土産しか受け取ったことがない。カンボジアでおれもシルクのクロマーを執念深く探したが、その執念を遙かにAさんの情熱は上回っていた。


 おれはスコタイでやっちまったまんまの泥だらけの靴を履いていた。気にしていないわけではなかったが、それでどこでも入っていた。そんな様子を見かねたのか、今度はスニーカーの泥を落とすブラシを買いに行こうということになった。ドンキホーテがバンコクに出店していてなかなか賑わっているとのことで、そこならあるのではないかというのがOの見解であった。


また船に乗ってチャオプラヤの対岸に渡り、電車に乗って……全部Oの案内でスムーズに移動した。途中スポーツ用品店に引っかかり、また化粧品店にも寄りしてから、ドンキホーテにたどり着いたが残念ながら靴のブラシは置いていなかった。おれが日本で使っている靴のブラシがダイソーで買ったものであることを思いだし、バンコクにもありそうだというと、牛が携帯でダイソーの場所を割り出してくれた。


Oはやっぱり行き方を知っていた。バンコクのダイソーは六〇バーツ(約三〇〇円)均一であった。硬い毛のブラシが手に入っておれたちはカオサンの宿に帰った。もうみんなチェックインできる時間になっていたので、おれの部屋から荷物を引き出し各自の部屋に持ち込んだ。おれはみんなが落ち着くのを中庭に置かれたテーブルでスニーカーの泥を落としながら待っていた。日本の土と違ってかなり粘り、スウェードのスニーカーはあまりきれいにならなかった。


 この夜の夕飯はおれの提案でチャイナ・タウンでタイスキだった。それはやはり四半世紀前の記憶からだった。二ヶ月半にわたるフエでの沈没生活を終えて、おれはラオスを横切りバンコク、カオサン・ロードへ流れ着いていた。ベトナムで滞在していたビンジュオン・ホテルが東南アジア最大の日本人宿であったし、カオサンは世界中からバックパッカーが集まる拠点だったから、通りを歩けば誰か知り合いに会った。ハノイからサパに行った牛もあとから追いついてきたし、当時は妻帯していたOも、きゃっぷもバイヨン(アンコール遺跡のバイヨンに似ている)もいた。


あるときそれらを集めて同窓会でもやろうという話になった。フエの市場で材料を買い込んで日本食を作っていたおれたちの同窓会はやはり何か作って食べるのがいいだろうということになった。沈没中たまったアドレス帳を引っ張り出して世界中に招待メールをばらまき、市場をほっつき歩いてお菓子屋からいらない一斗缶をもらい、それを飯盒の代わりにすることにした。どこからかバーモント・カレーが手に入り、ブリキのバケツの土手っ腹に穴を開けた七輪を発見して使うことにした。


カオサン近くの消防署の前の小さな公園を勝手に借りて同窓会は挙行された。覚えているだけでも一五名以上集まった盛会であった。まったく眩しい毎日だった。毎日腹の底から笑っていたが、そんな毎日もそろそろ終焉を迎えることはわかっていた。旅費が尽きかけてきたのである。カオサンの旅行代理店を何軒か廻って、日本への安いチケットを探した。安いと定評のある店で、あさってなら中華航空の席が空いている、といわれて少し動揺した。旅を終えるのがもう少し先の話と思っていたからだ。思い切ってそのチケットを買って、宿に戻りみんなに顛末を話すと送別会をやろうという話になった。


タイスキが食べたいというと、それじゃ、ヤワラー(中華街)のテキサスだ、と勝手に決めたのはバイヨンであった。別に異存もなかったので、そうと決まった。そしておれが帰国するという前夜、みんなでタクシーを仕立ててヤワラーへ向かった。飲んで、喰って、派手な集まりだった。勢いがついて次はゴーゴー(いわゆる夜遊び)だろうということになった。表にトゥクトゥクが数台停まっていて、そのうち一台に声をかけると、とんでもない値段が返ってきた。舌打ちして他にあたろうとするのをおれが押さえていった。


——いいよ、みんな、乗っちまえ!


やっちまえ! とばかり小さなトゥクトゥクに一〇人以上が乗り込み、トゥクトゥクは、ノー! と叫びながら、なぜかアクセルを吹かし、よろよろと進んだ……と思う間に横転した。あっはは、おれたちは大笑いしながら、トゥクトゥクから離れ、車を起こした。同じく、大笑いしてみていたほかのトゥクトゥクにおれたちは分乗し、ゴーゴーへ向かった。



 とんだ不良外人だったな、苦笑いしながらテキサスの店内の内装を見渡した。もっと簡素だったような……とおもうがうろ覚えで、あの時どの辺に座ったっけか、といってもほかのやつは興味がなさそうである。でも、飲み喰いの勢いはあの頃のままで、山のように注文した具材を鍋に放り込み、タレに浸けて頬張った。腹が満ちて、トゥクトゥクをひろ……うことはなく、夜の中華街をそぞろ歩いた。


きらめく照明のなか、路上のテーブルでカニを食べている人がいる。立派なロブスターを店先に飾って呼び込みをやっている。派手なトゥクトゥクがうなりを上げる。いい気分だ。少し酔っ払ったようであった。道はフアランポーン(昔のバンコク中央駅)に向かっているようだ。と、思う間に腹が差し込んできた。危険なものは食べていないはずだが、とにかく痛い。フアランポーン駅ならトイレがあるはずだ。フアラポーンのトイレに行くと言い捨てて、足早にその場を離れた。そして勝手知ったる駅に駆け込み……用を足し、駅を出てみると、ちょうど三人が駅に辿り着いたところだった。


三人はこれから、ライト・アップされたワット・アルンを見に行きたいという。おれは少し休みたかったので宿に帰ることにした。一緒の方向なので同じタクシーに乗って、途中で彼らは下りてしまい、もう少しでカオサンだな、と思っていたときだった。運転手は車を停めると携帯をとりだし、何事かを打ち込んで、おれに見せた。翻訳アプリのようだった。


——ここから先、私はいけません。違うタクシーを使ってください。


なぜ? あと少しじゃないか、といいたいのだが、うまく言葉が出ない。黙っていると運転手は車を降り、自分でほかのタクシーを拾って、一〇〇バーツでいいといっている、とおれに移るよう促した。おれはすっかり元気がなかったし、けんかしても仕方ないように思えたので、黙って車を換えた。本当にすぐその車はカオサンについた。むかしトゥクトゥクに乱暴した報いだ、そう思っておれは部屋でシャワーを浴びた。


 しばらくベッドで横になっていると嘘のように体は回復していた。せっかくのバンコクの夜をこのまま眠ってしまうのはいかにも惜しい気がした。時計はもう少しで九時半を廻ったところで、今から出かければちょうどゴーゴーが盛り上がる時間だと思うとうずうずしてきた。こっそりいってやれ。支度をしてそっと部屋を出た……と思ったら牛とOと鉢合わせした。


——おまえ、だいじょうぶか。どこへいくんだ。

——いや……。


大丈夫だと答えたが、さすがに夜遊びにいくとはいいかねた。大丈夫なら、これからちょっと出かけるから一緒に来るか、というのでついて行くことにした。どこへゆくのかわからぬまま、横丁を出た。寺脇の通りからカオサンの入り口へと、夜になると出てくるワニの屋台を冷やかし、道の両側で営業している飲み屋の爆音を聞き、裏カオサンに廻ってお粥屋が営業しているのを見、やはり何軒かある飲み屋の生演奏を品定めした。いわば夜のカオサン・ツアーで、久しぶりに帰ってきた牛が昔を懐しむのに付き合ったわけだった。締め括りはサワディー・ハウスの前にあるバーで、また飲んだくれ(おれは酒は遠慮したが)、おれの夜遊びは潰れた。


〈つづく〉