沈没とマラソン
(第12回/全14回)
望月竹一
二〇二五一〇一四
バンコクに着いたのは四時前だった。皓々と光る投光機のした、牛は携帯をしばらくいじっていたが、ちょっと様子を見てくるといってプラットフォームを離れた。おれとAさんはその場にとどまったが、なかなか帰ってこない。Aさんがライン通話で呼び出してみると牛は戻ってこようとしてセキュリティに止められ、もめている真っ最中であった。セキュリティを振り切って牛が戻ってから三人で移動した。
おれたちが落ち着いたのはターミナルの中のフード・コートでまだどのお店も開いておらず、眠そうな人がポツポツと座っているだけだった。ここでOが到着するのを待った。こんな時間だから宿に行っても落ち着けない、居場所があるだけ御の字だった。一時間ほど待ってOがやってきた。ピサヌロークで勝手に違う時間のバスに振り替えられて苦労したらしかった。四人でタクシー乗り場に出てみた。
この時間に着いてしまったひとが結構な数並んでいた。あわよくばバスは来ないか、とも思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。結局、牛がグラブを使った。便利なもので並ばずに車にありつくことができた。しかし、牛たちが大荷物過ぎてトランクに積みきれなかった。運ちゃんはなかなか機略家で溢れた荷物を助手席に積み、後部座席に四人座った。
今日から二泊おれたちが泊まるのは、スコタイに行く前におれが泊まっていたランプー・ハウスで、例の東屋のようなレセプションに行くと、他の人は二時チェックインだけど、おれだけはすぐに部屋に入れるといわれた。荷物はみんなおれの部屋に入れてしまい、遠慮のないOとAさんはシャワーを浴びた。
落ち着いたところで、カオサン・ロードに出かけた。おれは仕事をしながらでも休みを取ってちょくちょくやってきていたが、牛は二〇年以上きていないのではないかと思った。カオサン・ロードもあの頃と変わったが、今歩いてもあの頃の仲間とひょっこり会いそうな気がする。長い歳月を経て四人でこうしてやってこられたことはとても感慨深いことだった。朝の光の中、四人そろって記念写真を撮った。
カオサンをはしからはしまで歩いておれたちは左へ曲がった。狭い歩道を壁に体を擦りつけるようにして少しゆくとパン屋が二軒並んでいるのに出っくわす。手前の方のパン屋が結構名のある店で、おれも存在を知っていたのだが、Oによるとここのぶどうパンは普通のぶどうパンとわけが違い、パンのなかぶどうとでもいうべきものである。生地にぶどうが練り込んである訳ではなく、パンをパカッと割るとドサドサどさっと干しぶどうが落ちてくる。Oは話の種にこのぶどうパンを買い込んで動画を撮っていた。
なつかしい場所をひとまわりして、朝飯ということになった。Oが知っているカオマンガイ屋に連れて行ってもらって、向かいの公園で並んで食べた。ボリュームのある鶏肉が軟らかく煮てあって、満足であった。
バンコク滞在の二日間はタイ好きを自称するOの独壇場であった。とにかく詳しい。ガイドになれる。おれもタイは好きであるが、彼ほどの追求をしない。彼は用を足すだけのタイ語力を持ち、年に一度はタイに足を運び、タイ人の友達もいて、日々ネット情報チェックも余念がない。自分の店ではタイ・ポップを流し、タイのコーヒーを売っている。しかし、タイで解禁された大麻が好きなようでもなく、独身のくせに夜遊びに興味もなさそうで、ストイックにさえ見える。長い付き合いだがこの旅行中、彼の謎はさらに深まった。そんなOがおれたちを次に連れていったのはチャオプラヤー川の乗合船の船着き場であった。
おれたちの言い方でいえば、“カオサンの寺裏”から船に乗れることは知っていて、ワット・アルン(三島由紀夫が小説に書いた“暁の寺”)を見に行くときなど、使ったことはあったが、どれにのればどこにつくのか知っているわけでなく、検札のおばちゃんなどにワット・アルンを連呼し、言われたところで下りるだけであった。バンコクは水上交通が盛んなのだがはじめて、観光地以外の所へ船を使っていくことになった。
船に乗って、Oが連れていってくれたのはアイコン・サイアムであった。寺裏の船着き場からだとちょっと距離があってワット・アルンの前を横切った。船の上から見るワット・アルンはほのかに緑がかって見え、渋滞がないため大変快適で新しいバンコクの楽しみ方を教えてもらった気がした。そのアイコン・サイアム。着くまでおれはどういう所か知らなかった。よしOは説明したかもしれないが、あまり興味がなかった。ついてみて大きな商業施設であることを知った。
なんでこんなところに、と思っていたら、それはAさんのお土産のためであった。カオサンの何倍も高い(カオサンだってローカルの値段より高いのだが)カット・フルーツや串焼きが並んだフード・コートを抜けて、スーパーのお菓子売り場のような所にやってきた。Aさんはとある一角で足を止め、品物を詳細にチェックしはじめた。
個包装であることが望ましく、ドリアンのように匂いのきついのはだめ、これは本当においしいか……なるほど、おれたちは平気で屋台で飯を喰ったりするが、Aさんがいっしょに働く「普通」の人たちはそういうものを受け付けなかったりするかもしれない。高価でも、衛生的で、品質が高いものというと、こういう所で売っているものになるのだろう。自分が買ってきたお土産が、手をつけられずに晒されていたとすれば、あまり面白くないというのはわかるが、こうやって撰ばれたお土産は心のこもったお土産と言えるのだろう。商品を峻別するAさんはなかなか鬼気迫るものがあった。
Aさんは納得いくお土産が見つかり、おれたちはアイコン・サイアムを少しずつ上の階へと上っていった。途中牛たちが好きなスポーツ・ブランドのお店に引っかかり、おれが好きなシルクのお店に引っかかり、レートのいい両替のお店を見つけたりしたが、目指したのは六階のパッタイ・ティップ・サマイというお店であった。ここはパッタイ(タイ風焼きそば)の元祖のお店であった。
パッタイというと昔カオサンの屋台で酒のつまみに買った、麵をベタベタに油で浸したような代物で、とてもうまいと言えるもの(それでも安いから食べていた)ではなかった。元祖といい、大きなショッピング・センターの立派なお店といい、ここならおれのパッタイに対するイメージを打ち破ってくれるだろうと思って入った。オムライスのように薄い卵焼きで焼きそばを包んだものが有名とのことで、みんなそれにした。ついでにいうとなぜかここのオレンジ・ジュースも有名とのことだったが、パッタイだけでも結構なお値段だったので皆注文しなかった。
元祖のパッタイも油浸しの焼きそばだった。ここまで来ると、東南アジアの焼きそばは油浸しなのだと理解するほかないと思った。ただ、いい油を使っているのか、それほど気にもならなかったし、喉も渇かなかった。入っていたエビがプリプリでおいしかった。
炎のお土産探し人Aさんの次の標的は化粧品であった。「なんとか」というタイの化粧品を娘たちが欲しがっているということだった。数ある日本のものを飛び越えて韓国の化粧品がはやりとは聞いたことがあったが、田舎の高校生がそれさえ飛び越して遙かタイの化粧品を欲しがる位の化粧通なのか、と衝撃を持って聞いた。その「なんとか」はワトソンズっていうところにあるっていうの、と携帯で調べがついたのはさいわいだった。
ワトソンズならアジア一円、このタイにもいっぱいあるからだった。このアイコン・サイアムにもあったので早速Aさんはタイ語の化粧品の能書きを携帯で写真に撮って翻訳していた。娘のためにこんなにも一生懸命土産を探す姿というのも衝撃であった。これに比べるとおれは親からでも誰からでも、どうでもいいような土産しか受け取ったことがない。カンボジアでおれもシルクのクロマーを執念深く探したが、その執念を遙かにAさんの情熱は上回っていた。
おれはスコタイでやっちまったまんまの泥だらけの靴を履いていた。気にしていないわけではなかったが、それでどこでも入っていた。そんな様子を見かねたのか、今度はスニーカーの泥を落とすブラシを買いに行こうということになった。ドンキホーテがバンコクに出店していてなかなか賑わっているとのことで、そこならあるのではないかというのがOの見解であった。
また船に乗ってチャオプラヤの対岸に渡り、電車に乗って……全部Oの案内でスムーズに移動した。途中スポーツ用品店に引っかかり、また化粧品店にも寄りしてから、ドンキホーテにたどり着いたが残念ながら靴のブラシは置いていなかった。おれが日本で使っている靴のブラシがダイソーで買ったものであることを思いだし、バンコクにもありそうだというと、牛が携帯でダイソーの場所を割り出してくれた。
Oはやっぱり行き方を知っていた。バンコクのダイソーは六〇バーツ(約三〇〇円)均一であった。硬い毛のブラシが手に入っておれたちはカオサンの宿に帰った。もうみんなチェックインできる時間になっていたので、おれの部屋から荷物を引き出し各自の部屋に持ち込んだ。おれはみんなが落ち着くのを中庭に置かれたテーブルでスニーカーの泥を落としながら待っていた。日本の土と違ってかなり粘り、スウェードのスニーカーはあまりきれいにならなかった。
この夜の夕飯はおれの提案でチャイナ・タウンでタイスキだった。それはやはり四半世紀前の記憶からだった。二ヶ月半にわたるフエでの沈没生活を終えて、おれはラオスを横切りバンコク、カオサン・ロードへ流れ着いていた。ベトナムで滞在していたビンジュオン・ホテルが東南アジア最大の日本人宿であったし、カオサンは世界中からバックパッカーが集まる拠点だったから、通りを歩けば誰か知り合いに会った。ハノイからサパに行った牛もあとから追いついてきたし、当時は妻帯していたOも、きゃっぷもバイヨン(アンコール遺跡のバイヨンに似ている)もいた。
あるときそれらを集めて同窓会でもやろうという話になった。フエの市場で材料を買い込んで日本食を作っていたおれたちの同窓会はやはり何か作って食べるのがいいだろうということになった。沈没中たまったアドレス帳を引っ張り出して世界中に招待メールをばらまき、市場をほっつき歩いてお菓子屋からいらない一斗缶をもらい、それを飯盒の代わりにすることにした。どこからかバーモント・カレーが手に入り、ブリキのバケツの土手っ腹に穴を開けた七輪を発見して使うことにした。
カオサン近くの消防署の前の小さな公園を勝手に借りて同窓会は挙行された。覚えているだけでも一五名以上集まった盛会であった。まったく眩しい毎日だった。毎日腹の底から笑っていたが、そんな毎日もそろそろ終焉を迎えることはわかっていた。旅費が尽きかけてきたのである。カオサンの旅行代理店を何軒か廻って、日本への安いチケットを探した。安いと定評のある店で、あさってなら中華航空の席が空いている、といわれて少し動揺した。旅を終えるのがもう少し先の話と思っていたからだ。思い切ってそのチケットを買って、宿に戻りみんなに顛末を話すと送別会をやろうという話になった。
タイスキが食べたいというと、それじゃ、ヤワラー(中華街)のテキサスだ、と勝手に決めたのはバイヨンであった。別に異存もなかったので、そうと決まった。そしておれが帰国するという前夜、みんなでタクシーを仕立ててヤワラーへ向かった。飲んで、喰って、派手な集まりだった。勢いがついて次はゴーゴー(いわゆる夜遊び)だろうということになった。表にトゥクトゥクが数台停まっていて、そのうち一台に声をかけると、とんでもない値段が返ってきた。舌打ちして他にあたろうとするのをおれが押さえていった。
——いいよ、みんな、乗っちまえ!
やっちまえ! とばかり小さなトゥクトゥクに一〇人以上が乗り込み、トゥクトゥクは、ノー! と叫びながら、なぜかアクセルを吹かし、よろよろと進んだ……と思う間に横転した。あっはは、おれたちは大笑いしながら、トゥクトゥクから離れ、車を起こした。同じく、大笑いしてみていたほかのトゥクトゥクにおれたちは分乗し、ゴーゴーへ向かった。
とんだ不良外人だったな、苦笑いしながらテキサスの店内の内装を見渡した。もっと簡素だったような……とおもうがうろ覚えで、あの時どの辺に座ったっけか、といってもほかのやつは興味がなさそうである。でも、飲み喰いの勢いはあの頃のままで、山のように注文した具材を鍋に放り込み、タレに浸けて頬張った。腹が満ちて、トゥクトゥクをひろ……うことはなく、夜の中華街をそぞろ歩いた。
きらめく照明のなか、路上のテーブルでカニを食べている人がいる。立派なロブスターを店先に飾って呼び込みをやっている。派手なトゥクトゥクがうなりを上げる。いい気分だ。少し酔っ払ったようであった。道はフアランポーン(昔のバンコク中央駅)に向かっているようだ。と、思う間に腹が差し込んできた。危険なものは食べていないはずだが、とにかく痛い。フアランポーン駅ならトイレがあるはずだ。フアラポーンのトイレに行くと言い捨てて、足早にその場を離れた。そして勝手知ったる駅に駆け込み……用を足し、駅を出てみると、ちょうど三人が駅に辿り着いたところだった。
三人はこれから、ライト・アップされたワット・アルンを見に行きたいという。おれは少し休みたかったので宿に帰ることにした。一緒の方向なので同じタクシーに乗って、途中で彼らは下りてしまい、もう少しでカオサンだな、と思っていたときだった。運転手は車を停めると携帯をとりだし、何事かを打ち込んで、おれに見せた。翻訳アプリのようだった。
——ここから先、私はいけません。違うタクシーを使ってください。
なぜ? あと少しじゃないか、といいたいのだが、うまく言葉が出ない。黙っていると運転手は車を降り、自分でほかのタクシーを拾って、一〇〇バーツでいいといっている、とおれに移るよう促した。おれはすっかり元気がなかったし、けんかしても仕方ないように思えたので、黙って車を換えた。本当にすぐその車はカオサンについた。むかしトゥクトゥクに乱暴した報いだ、そう思っておれは部屋でシャワーを浴びた。
しばらくベッドで横になっていると嘘のように体は回復していた。せっかくのバンコクの夜をこのまま眠ってしまうのはいかにも惜しい気がした。時計はもう少しで九時半を廻ったところで、今から出かければちょうどゴーゴーが盛り上がる時間だと思うとうずうずしてきた。こっそりいってやれ。支度をしてそっと部屋を出た……と思ったら牛とOと鉢合わせした。
——おまえ、だいじょうぶか。どこへいくんだ。
——いや……。
大丈夫だと答えたが、さすがに夜遊びにいくとはいいかねた。大丈夫なら、これからちょっと出かけるから一緒に来るか、というのでついて行くことにした。どこへゆくのかわからぬまま、横丁を出た。寺脇の通りからカオサンの入り口へと、夜になると出てくるワニの屋台を冷やかし、道の両側で営業している飲み屋の爆音を聞き、裏カオサンに廻ってお粥屋が営業しているのを見、やはり何軒かある飲み屋の生演奏を品定めした。いわば夜のカオサン・ツアーで、久しぶりに帰ってきた牛が昔を懐しむのに付き合ったわけだった。締め括りはサワディー・ハウスの前にあるバーで、また飲んだくれ(おれは酒は遠慮したが)、おれの夜遊びは潰れた。
〈つづく〉