標高が4000m近くもあれば空気もだいぶ薄くなるし、記憶も曖昧で正確性に自信もないのだけれど、確かなことが全くないわけではない。


インドの一番北の端っこにあるラダックという場所。


今はどうか知らないけど、当時は交通インフラなんて全く期待できない場所で、ガイドブックにすら「ヒッチハイクでないと行けない」とか平気で書いてあった。


そんな思いまでして訪れたゴンパ(チベット僧院)に鍵が掛かっていて入れないなんてことも珍しくもなく、その絶望感で空気の薄さが更に増した気になって息が切れたりするのだった。


鍵のかかった建物の前で途方に暮れていると、一人のチベット人が通りかかった。藁にも縋る思いで鍵を開けることができないか、と聞いたのだが、彼は僧院の人ではなく、近くで農家をしているとのことだった。


「たぶん、午後には戻るよ」

と言われたのだが、それまで待つとレーの街に帰れなくなってしまう。


万事窮す。


ガックリと肩を落としている私を気にすることもなく、一緒にここまで来た彼女は笑顔で「せっかくだから写真撮ろう」と言った。


その無頓着さに呆れてわたしもどうでも良くなってしまい、やたらおどけて写真を撮り、帰ろうとすると、さっきのチベット人が「これを持って行きな」と、両手で持ち切れないくらいのアプリコットをくれた。


それは彼女の笑顔が運んできた幸福感の象徴のように思えた。


私の無神経さが、彼女を何度も怒らせてきたはずだったけど、思い出すのは全部笑顔の彼女だった。


そんな彼女もこのユーラシアを横断する長い旅に最初から乗り気だったわけではなかった。元はといえば、学生時代に読んだ「深夜特急」に影響を受けた私が望んだ旅だったからだ。


海外にも旅行にも大して興味がなく、休みの日には家でのんびり過ごすことが好きだった彼女は、私の酔狂に付き合わされた犠牲者のようなものだった。


フエの日本人宿で多くのバックパッカーと出会って旅への高揚感を増していった私を尻目に、彼女はきっと「私はこの人たちとは違う」という疎外感を感じていたように思う。


そんな彼女がメコンに沈む夕陽を見ながら、「ずっとここにいたい」と呟いた街、それがサワンナケートだった。


本当にメコン以外には何もない、小さな田舎町がなぜか彼女の心を温かくほぐしていった。


現地で偶然出会ったラオス人に「日本語を教えてほしい」と言われ、メコン川沿いのベンチで何時間も日本語を教えた。そのときも彼女は楽しそうだった。


日本を発った1月は真冬の寒さだったけど、2月末のサワンナケートは夏だった。


街にあった小さな郵便局で、旅立ちの時から着てきたコートを日本に送った。これからの旅程を考えると、もうコートは当分必要なさそうだったからだ。


コートを脱いだ彼女も私も、旅立ってからずっと纏わりついてきたモヤモヤした気持ちを、コートと一緒にこの街で脱ぎ捨てることができたように感じた。


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もしかしたら、もう2度と旅に出られないかも知れない。


心の病になって以降、何度もそんな考えに襲われた。


そしていつしか、もし最後に旅に出るとしたら、あのメコンの街にもう一度行きたい、と強く思うようになった。


あの2人で見た夕陽をもう一度見たいと。


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それが、昨年、サワンナケートに行った理由です。

10時間もバスに揺られ、一泊だけ滞在してまたバンコクに蜻蛉返りしたのには、ちゃんと理由があったのです。


たくさんの雲が多層のグラデーションに輝いて、ウルトラマリンに変わるまで、ずっと空を見ていました。


ビアラオはあの時ほど美味しくは感じませんでした。


ラオス人の僧侶から、一緒に写真を撮ってくれないか、と頼まれました。


あの時、日本人は渡れなかったメコンは、橋を使って簡単に渡れるようになりました。


アジアはどんどん便利に、融通が効くようになったのに、自分の体は、心は、どんどん融通が効かなくなってしまいました。


サワンナケートの夕陽を見て、旅仲間たちと念願のカオサンにも立てた今、私に次に目指す場所などあるのでしょうか。


今は自問自答の日々です。ただ、仮に旅立つ気持ちが芽生えたとて、金も時間も足りていない現実に直面するだけなのが悩ましいところです笑




最近、スマホでSNSを見ていると嫌でも目に入ってきて、時間を溶かし続けるショートムービー。


そんなショートムービーの中で、特に私の時間を徹底的に溶かし続けているムービーを紹介します。タビビトの木のブログなので海外のもの限定です。


① chotutufan 



ネパールでキッチンウェアの修理販売をしているこのおじさん。


店にはいつも修理を求める人だかりができていて、その持ち込まれる調理器具(主にミキサー、圧力鍋、コンロ)を、爆速で修理していきます。


その作業は丁寧さを全て排除し、スピードに全振りしていて、動画を見るたびにランチタイムの自分の姿を想像します笑


もう少し落ち着いてやったほうが、結果、早く修理できるのでは?と思ってしまいます(お前もな)。


この人のすごいところはなんとYouTubeの登録者が100万人越えていることです。人口が多いインド、パキスタンで人気とはいえ、元プロ野球選手の中で一番登録者数の多い上原浩治さんより登録者が多い。


どこにそれだけの人を惹きつける魅力があるのか?ぜひ一度見ていただきたい笑



② chhangani club kachori



club Kachori というのは、カチョーリという小さい揚げパンとアールーサブジ(ジャガイモのカレー)にひよこ豆の粉で作ったベビースターラーメンみたいなスナックをかけて食べる朝食メニューで、インドのコルカタで有名です。


中でもぶっちぎりに有名なのが、この動画のラーリー・チャンガニさんのお店。


フードブロガーやユーチューバーが店の不衛生さを指摘したり動画を撮ろうとしてチャンガニさんがブチ切れる、という一連の流れで大バズりし、多いものだと2000万回以上再生されています。


YouTubeやTikTokで「chhangani club kachori 」と検索すると多くの動画が出てきますが、全てチャンガニさんの店のオフィシャルではありません。


この人の動画を何10本も見てわかったことは、確かにちょっと変わった人のように見えますが、事業としてはタビビトの木なんかよりずっと成功していて、ちゃんと庶民に愛されているのです。なにしろ一皿40ルピー(約67円)です。


不衛生なことに疑いはないですが、インドでこのレベルの不衛生さを疎んでいたら、マックくらいしか食べるものがありません。


完全にネットミーム化して、AIでいじられまくるネタになっているチャンガニさんですが、別に怒り狂ってなくても、AIで面白おかしく編集されているものでなくても、なんだかとてもインドを感じて見続けてしまうのです。




③ 調色おじさん



TikTokを中心にバズっているこの中国人のおじさん、どんな色でも簡単に全く同じ色に調色してしまうとんでもない人です。


絵の具を使って絵を描く人ならわかると思いますが、複数の色を混ぜて作った色と全く同じ色を再び作るのはとてつもなく難しいことです。それをこのおじさんは、一眼見ただけで、しかも足元に置かれた塗料の缶から適当に目分量で混色しただけで、依頼者が持ってきた部品に塗られた色と寸分違わぬ色を作ってしまいます。


動画の流れは完全にワンパターン。最後はできた色をスプレー缶に入れて、それを定規のような板に吹き付けて元の色と比べ、「ほら、全く一緒だろ?」って感じに見せるという流れ。


全く同じなのに流れてくるたび最後まで見てしまう。


これも超絶技巧なのだとすると、やっぱり人は神業というものに惹かれるのだなあと思います。



  海波家肉夾馍



肉夾馍(ロージャーモー)とは中国の西安の名物料理で、サクサクに焼き上げたパンに、じっくり煮込んだ味付き豚肉を挟んだ「中国式ハンバーガー」です。


この海波家は特に頻繁にライブ配信をしていて、フォローするとYouTubeのフォロー動画の欄がハンバーガーで埋まります。


このライブ配信が面白いのは、作っている店員目線で撮影されているということです。まるで自分が屋台でひたすらハンバーガーを作っているかのような錯覚に陥ります。ワンオペで次々ハンバーガーを作っていく様はやたら食欲をそそります。私もこのライブをパクって店でやってみようかなと思ったりします。


実は肉夾馍は東京でも食べることができます。


新大久保駅前にある南南鶏蛋肉漢堡と、早稲田通りにある秦妃 HOTMORという店です。私はまだ食べに行ってないので味に関してはレビューできません笑


とにかく腹が減るショートムービーです。




⑤ Toko ko Afang 



Toko ko Afang とは、インドネシア語でAfangの店という意味だそうです。動画に出てくるのはジャカルタにある「Metro Atom Plaza」というショッピングモールにあるお店で、Googleマップで見てみるとお店の看板には「ケーキ材料とコーヒーの店」と書いてあるようです。


このお店のショート動画が、インドネシアで大バズりしているようで、その結果、私のSNSにも流れ着きました。


店先にコーヒーの缶がずらりと並んでいて、トラジャ、マンデリン、ロブスタなど、インドネシアの有名な銘柄の名が書かれています。ご存知とは思いますが、インドネシアはベトナムに次ぐアジアの一大コーヒー産地です。


動画はこれぞ究極のワンパターン。


店主の男性が缶からコーヒー豆を掬い出して、秤に乗せ、それをミルで挽いて袋詰めするというもので、コーヒーの種類こそ変わりますが、流れは全く一緒です。


これがバズる理由は、ASMRの効果があるからだそうです。コーヒーを掬う音、挽く音、袋に入れる音が確かに心地よいです。


コーヒー屋の私的には男性が1人でレトロな機材を使用して、澱みなく作業する様子を眺めているだけでも楽しい。その効果として、私も店で豆を売るのが楽しくなりました(嫌だった訳ではありません)。


見始めたら止まらない謎のASMR動画。


いつかジャカルタのこの店にも行ってみたいものです。



ここまで紹介した動画、改めて見返すと、全ておっさんが働いてる姿が映されている動画ばかりでした笑


しかし、そこに悲壮感は微塵もなく、皆自分の仕事に誇りを持っているようにすら感じます。世界中でおじさんたちは頑張っているのです。


翻って、日本のおじさんが1人であたふたしてる店も、なんかの幸運でいきなりバズったりしないかなーと、特に動画を撮っているわけでもないのに都合の良い空想をしている毎日なのです。




「旅行人」


旅人でもバックパッカーでもなく「旅行人」。


なんと魅力的な名前だろう。


2000年前後のネット情報を頼りに出来ない頃のバックパッカーたちが、パスポートと同じくらいの確率で持ち歩いていたガイドブックを発行していた会社だ。


ガイドブックは「旅行人ノート」という名前だった。その第1巻はなんと「チベット」。ここからも旅行人ノートがどんな旅行者をターゲットにしたガイドブックかがわかるだろう(因みに第2巻はアフリカ)。





特に好評だったのが地図の正確さだ。


当時「地球の迷い方」と呼ばれていた某有名ガイドの超適当な地図とは全く違い、同じく地図に定評のあったロンリープラネットの地図に比肩できる地図だった(というか、おそらくロンプラにかなり影響を受けている)。


旅行人との出会いがいつだったか、確かな記憶はないが、最初に買った本は覚えている。


学生時代に読んだ沢木耕太郎の「深夜特急」に遺伝子レベルでかぶれていた私はいつの日かユーラシア大陸を横断してやろうという野望を持って、その資金作りのためだけに就職をした。


そして微かに旅実現の可能性が見え始めた頃、新宿の紀伊国屋書店で購入した旅行人ノートの「アジア横断」が最初の一冊だった。



なにしろアジア横断のためのガイドブックなど、他に見た記憶がなかった。表紙にはゴテゴテにデコレーションされたパキスタンのバスと「深夜特急に乗りたい旅人たちへ」の文字があった。


はい!それ私です!深夜特急に乗りたい旅人です!


あの本を購入した瞬間から、私のユーラシア横断の旅は始まっていたのだと思う。


その後、アジア横断に出発する直前に「メコンの国」

も購入した。この「メコンの国」こそ、ベトナムやタイで出会ったバックパッカーたちが、パスポート以上の確率で持ち歩いていたバイブルのような本だった。


当時は円が最も強かった時期で、タリバンとアメリカがドンパチ始める前はおそらく最も世界中を旅しやすい時代だった。


その時代の「金はないが時間はあまりある」貧乏旅行者の背中を、旅行人の本は強力に後押ししてくれた。


その旅行人を立ち上げたのが蔵前仁一さんという旅作家だ。


当時のバックパッカーは違法合法の上をフラフラしているような危うい存在で、ケチで文句ばっかり言って、東南アジア全体を売春窟と勘違いしているのではないかというような輩が多かった。間違いなく現地の人たちからは疎まれていた。


バックパッカーに通底している感覚はおそらく藤原新也の「メメントモリ」や、小林紀晴の「Asian Japanese」のような、日本の常識的世界から少し踏み外してしまったような感覚だったと思う。「自分探し」などというワードを免罪符にアジア各地で好き勝手やっていたわけだ。


だが、蔵前さんはバックパッカーに染みついたこの類のイメージを覆した。


蔵前さんが書いた「ゴーゴーインド」はもっと軽やかにスマートにバックパッカーを描いていた。それはまるでなんということもない日常を描いているかのようだった。


バラナシに行った時、ガートの火葬場で死体を燃やしているのを見た。多い日だと5、6本の煙がガートから上がっていた。それを見ていて、なぜか多摩川の景色を思い出した。


これもインドの日常。


そう思った時、蔵前さんの軽やかな心を少し理解した気がした。


「旅行人」という雑誌の名前には、そんな蔵前さんのスタイルが垣間見られるように思う。


自分も年を取り、中国で48時間電車に乗ったり、パキスタンの砂漠をおんぼろバスで越えたりするような旅はもう出来ないと思う。


それでも、


もはやバックパッカーでも旅人でもなくなってしまったとしても、これからも私は「旅行人」となって、軽やかに世界を見てみたいと思うのだ。


2026年5月、旅行人はその活動を終了した。


今から9年前、近くでゴーゴーインド30周年の個展をされていた蔵前さんと奥様の小川京子さんがタビビトの木を訪れた。蔵前さんにタビビトの木を紹介してくれたのは、偶然この店を訪れた前原利之さんだった。


前原さんは、私が初めて買った旅行人ノート「アジア横断」を編集執筆された方だ。


ご縁に感謝。これからも旅を続けます。





ライカというカメラのことは、カメラに興味ない人でも知っている人は少なくないだろう。


ほぼ金属でできているために鉄アレイのように重いそのカメラを肩にかけて、ユーラシア大陸を一年以上旅したことがある。


帰国した時、巻き上げレバーを回すとジャリッと砂を噛んだ音がするようになっていた。その音が長かった旅の道程をセンチメンタルに思い起こさせた。


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ライカM6を売ることにした。今現在持っている唯一のライカ製レンズのズミクロン50mmを付けて。


新宿のM社の買取センターには他に誰も客がいなくて、病院の待合室のような重い空気が漂っていた。


窓口の女性に「番号札を取ってお待ちください」と言われたので、タブレットを操作して札を受け取り、座って2秒で番号を呼ばれた。


対応してくれたのはさっき番号札を取れと言った女性だった。ここに来ているからには理由は明白なのだが、「カメラを売りたいんですけど」と言うと、女性はゴミを眺めるような目で私を見て、売りたいものをここに出せ、と言った。


ライカとソヴィエト製のレンズ2本、フィルター類、ついでに持ってきたコンパクトカメラをそこに出すと、「フィルターとコンパクトカメラは買い取っていません」と、秒で突き返された。


申し込み用紙が差し出され、早口で説明を受け、何を言ってるかほぼ聞きとれなかったのだが、太枠の中を埋めるということは理解できたので、震えながら記入した。


「結果は18:40になりますが今日来られますか?」と聞く彼女の眼からは「閉店直前に来るんじゃねえぞ!明日にしろよ!」という強力な圧力を感じたのだが、どうしても明日、現金が必要だったので「今日来ます」と言った。


女性は苦々しい表情で「19:00閉店です!」と吐き捨てた。私のことを盗品を売りにきたやばいオヤジだと思い込んでいるに違いない。


結果が出るまでには2時間以上あった。5階から地上に降りて、さてどこで時間を潰そうか、と考えた。


一階には新品のライカを売る宝石店のようにキラキラした店があり、金持ってそうな坊主頭の中国人があれこれライカを触って店員と話をしていた。


花園神社に行こうか、と思った。


ライカを買ったばかりの頃、花園神社の鳥居を撮影して、レンズの解像度の高さと、鳥居の赤の発色に感動したことを思い出したのだ。





花園神社も外国人だらけだった。いや、もはや私以外全員外国人だった。皆あちこちでポーズをとって写真を撮りあっていた。


いたたまれない気持ちになってすぐに神社を後にした。


2時間はひどく長い時間だったが、約束の時が近くなると買い取りセンターに向かう足が重くなった。


ラダックの要塞のようなティクセゴンパも、バラナシのマニカルニカガートに何本も上がる死人を焼く煙も、シャイヨー宮から見たエッフェル塔も、10ヶ月かけてアジアを横断した後に辿り着いたボスフォラス海峡も、数え切れないくらい多くの旅人たちもこのライカで撮影した。


もう2度と会えない大好きだった人も。


買い取りセンターの女性は「これも買い取れないレンズでした」と感情のない声で言って、ソヴィエト製のインダスターも返却してきた。


ライカはファインダーの清掃の必要があると40,000円が引かれ、DRズミクロンに至っては内部がだいぶ曇っているということで25,000円にしかならなかった。


ソヴィエト製のジュピターも合わせて170,500円。


それは思い出の価値とは到底釣り合わなかったが、明日支払わなくては行けない金額は思い出よりも重かった。


私は女性の顔を一瞥もせず「売ります」と言った。




ライカを買った日の夜、嬉しさのあまり枕元に置いて寝た。そんなことをしたのは後にも先にもライカだけだった。



コダックの感度200のフィルムを装填して最後に撮ったのは新宿のどんよりと曇った空だった。


フィルム巻き上げレバーは音を発さず、驚くほどスムーズに回った。それはライカが私の未練を断ち切るように、敢えて惜別の台詞を言わなかったかのように感じた。




「あのさ、バックパッカーに上も下もないんだから、敬語で話すのやめようや」


小雨降る中華街のクイッティアオ屋台で言われた一言がずっと今も脳裏に残っているし、その言葉を言った彼の印象も四半世紀経つ今も変わっていない。


彼と初めて会ったのは、ベトナム、フエのビンジュオンでだった。


ビンジュオンはその頃東南アジアで一番有名な日本人宿だった。それまでも何度かバックパッカースタイルの旅をしてはいたのだけど、ホンモノのバックパッカーに会ったのは、ビンジュオンが初めてだった。


そのバックパッカーたちのリーダーとも言える存在だったのが、「牛」ことマツさんと、彼、今回「沈没とマラソン」を寄稿してくれたモチさんの2人だった。


盟友とも言える2人だけど、性格も生き方も旅の仕方も全然違う。モチさんは文学的で、思考の先に行動があり、マツさんは行動することで思考が生まれるようなタイプだった。そして、私はそんな2人のやり取りを見ているのが好きだった。


この文章の冒頭に書いたようなことを言ったのはいかにもモチさんらしく、突然マラソンを始めて、その行動こそが彼そのものを象徴していることはいかにもマツさんらしかった。



モチさんがカオサンから去った日は私のバックパッカーの旅の中で一際印象に残っている。


カオサンのビール屋台にはいつもの仲間が集まって、モチさん最後の夜はとても賑やかだった。チャンプ、キャップ、バイヨン、カッキー、岡ちゃん、いちこさん、みんなビンジュオンの仲間だった。


当時のカオサンは午前2時までしか酒の提供ができなかった。しかし、そこはタイらしく、こっそり酒を出してくれる店があって、河岸を変えた後もまだ5、6人残っていた。


モチさんはこっそりマツさんのビールにベトナムの品質の悪い蒸留酒「ルアモイ」を混ぜていた。そのせいでマツさんは完全に泥酔し、飲み屋の席でピクリとも動かなくなった。


空港行きバスの時間が迫り、モチさんは準備のために宿に帰った。マツさんは相変わらず動く気配がない。仕方なく私とチャンプ、キャップ、バイヨンの4人で神輿のように泥酔したマツさんを担いで、モチさんのバスが来る場所まで運ぶことにした。早朝と言ってもまだ暗いカオサンを東の端から西の端までマツさんを担いで運んだ。


モチさんも結構飲んでいたと思うのだけど、酔った素振りを一切見せず、凡そバックパッカーには似合わないくらい爽やかにカオサンから去っていった。


記憶が確かならモチさんはマツさんに「またな!」と声をかけてバスに乗ったのだけど、マツさんは相変わらず夢の中で、長旅を終える盟友を見送ることは出来なかった。


そして四半世紀が過ぎて...


私たちはまた早朝のカオサンに立った。今度はあの朝とは逆に西の端から東の端へと歩き、それはまるで丁寧に時間を巻き戻す作業のように感じた。


その頃マツさんが泊まっていたPCゲストハウスを見にいった。20年以上前、既に床が抜けるようなボロ宿だったPCはまだそこに残っていた。


私たちは本当に時間を遡ったのかもしれない。


素晴らしい時間だった。もう人生に思い残すことはないとまで思った。



冒頭の言葉を言われたその瞬間から、旅仲間に敬語を使うのを止めた。でも、2人のことは今だに「マツさん」「モチさん」と呼んでいる。


それはあの時ビンジュオンで、深夜特急に憧れただけの俄旅人だった私をバックパッカーにしてくれた彼らへのせめてもの敬意だと思っている。