沈没とマラソン

(第3回/全14回)

望月竹一


 二〇二五一〇〇五


 六時過ぎに目が覚めた。三〇分後には朝飯が始まるが、いても立ってもいられず、外に出た。ドンコイをサイゴン川の方向に歩いているといろんな人に声をかけられた。コンチネンタルの真ん前にある市民劇場(オペラ・ハウス)の入り口に年代物のアメ車が停まっていて、そこで通りがかりのおっさんから写真を撮ってくれと声をかけられた。バイタクのおっさんたちも元気だった。どこから来た、朝飯は、今日の予定は、シティー・ツアーに行かないか、おれの歩くのに合わせてゆっくりと歩道をバイクでついてくる。下手な相手を選ぶとぼったくられるは、けんかのもとだは、で大変なことになるが、向こうも商売だからと、あんまり冷たい態度も取れない。


 ぐるりと廻って市民劇場の所に戻ってくると、年代物のアメ車はまだ停まっていた。ウェディング・ドレスを着た女性と、その花婿らしい二人が写真のモデルとしてカメラマンのいろんな注文に応えていた。どうやらアメ車はウェディング写真の小道具のようだった。


 いい具合に朝飯は始まっていた。レセプションで場所を訊いて、一階の奥にある木枠にガラスをはめ込んだ扉を開くと、おねえさんに部屋番号を尋ねられた。


 席はどこでもよさそうなので、食べ物を取りに行きやすそうな所を選んだ。背後にビュッフェ形式でいろんな食べ物が置いてある。おれはまずジュース類から手をつけた。同じオレンジ色でも色の濃いのと薄いのがあった。色の濃いのを撰択すると、それはパッション・フルーツのジュースだった。二年前、マジェスティックに泊まったときおこわを食べて大変おいしかった。ここにもないかと探したが、なかった。代わりにおかゆがあったのでピータンと刻んだパクチーをのっけて持ってきた。かにのスープ、カリフラワーやにんじんとカシューナッツの蒸したもの、幅広麵のハーブ添え、贅沢に盛り付けて朝飯は盛況だった。特に野菜とカシューナッツの蒸したものは、野菜を蒸すとこんなにおいしいのかと思わせられた。


 料理をすべて平らげたが出発まで間があった。テレビをつけっぱなしにして部屋で荷造りをした。ファングーラオまでどうやって行こうかと思い悩んだ。距離にして二キロ程あるようで、歩けないことはなかった。ただ大荷物で歩くのがおっくうだったのでタクシーの利用も考えた。宿の玄関にタクシーの溜まり場があるならファングーラオのバーガーキングのところまで、と宿の従業員に言ってもらえばいい、しかし、この宿にはタクシー溜まりはなかった。グラブという手段もあった。これは東南アジア一円で使えるタクシー・アプリである。行き先を設定すると値段も自動的に出てきてカードで決済される。交渉する煩わしさやぼったくられる危険がない分重宝で外国人も使っているようだ。バスは一〇時半の約束で、歩くなら九時四五分には作戦を開始せねばならない。


 結局、九時四五分に待ちきれなくなってチェックアウトしてしまった。でこぼこでバイクが行き交うサイゴンをゆくのは難儀ではあったが、始まったばかりの旅の高揚感がこの撰択をさせた。


 Ibisというバス会社のカウンターまで三〇分かからなかった。昨日の兄ちゃんが座っていて、彼はおれのことを覚えていてくれた。座って待っていいか聞くと、もちろん、と返事してしばらく待った。カメラの値段など訊かれていると、赤いポロシャツを着たおっちゃんが迎えに来てそこから数十メートル先のD&Dと書かれた事務所に連れて行かれた。どうやらこのD&Dエクスプレスという会社のバスでプノンペンまで行くことになるようだった。


 D&Dではカウンターのおねえさんにパスポートを取り上げられた。なかなか返してもらえないので、あの、パスポートは……というと、ああ、自分でやるのね、といって返してくれたが、ほかの乗客は預けたままで、しまったなと思った。同じバスの乗客と思われる人々はパラパラとやってきていたが、バックパッカーはおれだけ、カンボジア人に見える人は誰もいなかった。


 程なくして事務所の前にバスがやってきた。古びているが普通の通路をはさんで二席ずつシートを連ねたバスで、Ibisの事務所におれを呼びに来た赤ポロシャツのおっちゃんが乗客に水とお菓子を配った。バスは出発しロータリーを廻りどうやら北へ向かっているようだと思うとすぐに下ろされてしまった。乗客はバスの腹に入れた荷物を待っていたバスに移し替えている。どうやらここで乗り換えのようだった。


 新しいバスは寝台バスだった。寝台バスでは車内で靴を脱がされる。ビニール袋を配られ、靴はそれに入れて手元に置いておく。幅七〇センチくらいの二段ベットが三列に連なるバスで、現在のベトナムで長距離バスというとこのタイプが多いようだった。乗りづらいんだよな、普通のシートでいいのに。ちょっと渋い思いで真ん中列の一番前、下段に陣取った。


 カメラを抱えて寝そべっていると例の赤いシャツのおっさんにチケットは、と訊かれた。チケットはD&Dの姉さんに渡してそれっきりで、改めて訊かれると思わなかった。びっくりして、ないよ、と返事してどうしたものかと思っていると、おっさんは携帯をとりだしてどこぞに連絡を取り、おまえはあっちのベッドと指さされ、おれは移動した。


 バスは北西の方向にむかい一時過ぎまた停まった。雨が降り出しており、さいわい屋根のあるところだった。みんなについて下りていったが、何も売っていない。ドライブ・インではなさそうだった。近くの建物の看板にモクバイとあったのでどうやら国境のようだと思った。他の乗客は連れと何事かおしゃべりをしている。おれはここはどんなもんじゃろ、とみまわしている。天に向かって両手をかざしたような、鳥居の横棒を天にねじ曲げたような飾りのついた威嚇的な変な建物があった。


 少したってバスにまた乗り込んだ。そして少しだけ前方に移動しまた停まった。まだ腹が減らないな、などと思っていると添乗員のおっちゃんがおれを手招きをする。左手の建物に連れて行かれ机をはさんで座ると、たどたどしい英語で、プノンペンでの住所は? 滞在目的は? などと訊かれた。その内容からアライバル・カードをわざわざ記入してくれているようだ。ひと通り質問が終わると、あっちだと指さされ、パスポートを渡された。英語の表記もなくおっかなびっくり進んでいくとガラスで囲まれた小部屋が二つありそのうち左手が開いていた。パスポートを見せて、こちらに向けられている小さなカメラを見るようにいわれ、帽子を取れ、眼鏡を取れ、指をここに乗せろ、細かくいわれたのちゆっくりとスタンプを押して返してくれた。


 税関はフリーで、バスの腹から荷物を引っ張り出すこともなかった。右手に免税があるのを確認し、覗いてみたい気持ちに駆られながらも出口に足を進めた。バスに戻ると手続きが終わったのはおれだけでまだ誰も戻ってきていなかった。自分のベッドで寝転んでいると、三々五々戻ってくる。最後に添乗員のおっちゃんがやってきて、名前を呼び、まとめてパスポートを返していた。ベトナム人たちは入国手続きが別でバス会社がまとめて面倒見てくれるようだった。


 国境を出発するとすぐバスは集落の中に入っていって停まってしまった。下りてみると飯屋であった。ちょっとした障害をクリアして高揚した気分だったが少し挫かれた気分であった。しかし今食べておかないといつ食べられるか。ただ、問題があった。カンボジアのリエルをもっていない。カンボジアはUSドルも普通に流通しているとのことだったが、こんな場末の飯屋で通じるかどうかわからない。ベトナムのドンはどうだろう。昔カンボジアータイ国境を越えたときカンボジア側でバーツが使えたのを思い出した。思い悩むうちに休憩は終わってしまい、おれは喰いっぱぐれてまたバスに乗った。


 バスの中ではあまり、眠れなかった。窓の外を見てぼんやりするだけである。川が見えて、どんな名前か、と思ったときは写真を撮った。カメラにはGPSが内蔵されており、日本に帰って調べればこの川が何というのかわかるからだった。夕焼けが見え始めて、集落に入るごとにそろそろではないかという期待を持つようになった。それでもなかなか、プノンペンは遠かった。


 バスが街に入り、それがなかなか途切れないな、と思い始め、渡河し、ここがプノンペンならそろそろ下ろしてほしいと思ってもバスはしばらく停まらなかった。空はすでに暗くなっており南国ながら秋の寂しさが感じられる。日本のイーオンが目に入った。このようなものがあるのはおそらく首都プノンペンであろう。おれは川沿いに宿を取っていた。どんどん離れていくのでハラハラした。少ししてやっとバスは停まった。





 乗客たちは我先に下り始めた。おれは二段ベッドの上で、おりるのに足下が心許ないのであとの方になった。ステップをおりて靴を履いて開けられたバスの腹の方に歩いて行った。おれのザックはすでに出されていた。片方の肩だけで担いで、さあどうしようかと思った。そのとき、バイタクに声をかけられた。経験的にこういう長距離バスの停車場で客待ちをしているひとは危険がないひとだった。仲間内で、いちど声をかけるとそいつのお客ということになり、他の人は声をかけてこない。


どこまで行くんだ? と訊くので、一三〇番街、リバーサイド、と答えると四ドルとの答えだった。どうやらリエルじゃなくUSドルでいってくれるらしい。バスが川を渡ってからここまで結構な距離があったから(バイタクがいうには四キロとのことだった)そんなもんかなと思った。加えてここがどこかわからないので、バイタクの助けがないと宿までたどり着きようがなかった。


 オーケー、おれは答えてバイタクのケツに乗った。光の海のなかを車体を傾けてカーブを曲がり、いや、こわい、と思いながら早く着くことを願った。ホテルは決まっているのか? というので、決まっているよ、と答えたが、知ってるところがあるからつれてってやるよと続けたようなので変な気がした。


 連れて行かれたのは昼のように明るい繁華街の中のちょっとしたホテルの前であった。ホテルの名前を調べて、どうやら違うところに連れて行かれたことを悟ったが、大雑把な性格のせいで腹も立てずに、四ドルを払ってやった。


しかし、現在地を割り出さなくてはならない。とりあえず、もっと明るいところに向かって歩き始めるとさいしょの角のところでトゥクトゥクに声をかけられた。一三〇に行きたいんだよ、と答えると、なーんだ、という風情であっちだと指さしてくれた。その通りに行ってみるとたったひとブロックで一三〇番街にぶち当たった。よかった。あとはリバーサイドを探せばいい。もっと明るい辺りへ進むと一〇〇メートルも行かないうちに今宵の宿を発見した。


 中へ入っていくと従業員の男が暇に飽かせて外を眺めているところだった。予約していることを告げるとなにごとか調べている。リバー・ビューの部屋を予約したんだけど……と言い添えると、カード・キーを渡してくれた。


 部屋に入って荷物を置くと、すぐに外に夕食を摂りに出た。シソワットキーと呼ばれる川沿いの遊歩道が至近で、そこがもっとも明るかった。歩行者天国の人混みができていて夜市になっているらしい。





 蜂の巣らしきものが透明のセロファンの袋にくるまれて売っている。このまま食べるのだろうか。ケーキをテーブルにのせて売っていると思えば、テーブル・クロスにティラミスと書いてある。踊り子と太鼓の叩き手とで、芸を披露している人もいる。すごい人だ、おれはここを訪れた四半世紀前を思った。


あの頃は夜歩きができない街だった。買春と麻薬目当ての滞在者が多く夕方近くになると宿のロビーに現れ、バイタクに乗ってどこかに消えてゆく……。一日チャーターしたバイタクの運ちゃんは孤児だった。日本語がペラペラ(独学したようだ)で両親は知識人だったようだから、クメール・ルージュによる粛正の対象だったかもしれない。旧ツールスレン刑務所やキリング・フィールドをみて日本の敗戦直後のような荒廃を感じた。平和って本当に貴重なんだ、政治が一歩間違えると本当に怖いんだ、そう強く感じた。


 遊歩道沿いの夜市をひとわたり見てから、夕食を食べられる店を探した。とても混んでいる中華料理屋を見つけた。席がいっぱいなようだから諦めたが、この辺一帯飯屋があるようだった。店先にあるメニューを眺めていると女の子に声をかけられた、英語で返事をすると、曖昧な笑顔を浮かべた。USドルは使える? と訊くと奥に入って若い男を呼んできた。彼は英語ができたのでメニューを持ってきてもらいとりあえず、地場のアンコールというビールを頼んだ。付け合わせは皮付きのピーナツを煎ったもので、手で煎ったのかところどころ焦げていた。今宵の夕食は鶏肉と青菜を炒めたもので、皿にまあるく白飯が盛り上がった脇に添えられていた。


 夕食を終えて、夜市を冷やかしながら宿へ戻った。その途中例のケーキ屋でティラミスを買ってみた。マスカルポーネ・チーズは緩く固まっておりそのうえに振りかけられたチョコレートの粉末になぜか砕いたオレオがのっていた。


〈つづく〉




 沈没とマラソン
 (第2回/全14回)
 望月竹一

 二〇二五一〇〇四

 薄暗い空港の中から外に出ると、まぶしい南国の光があった。何か解放された気がしてiPhoneを取り出してシャッターを切った。タクシーに声をかけられたが、右手にバス停があるのを知っていたので、そのままそちらにむかった。いいタイミングで一台のバスが出るところであった。同じく日本人らしい女性二人が乗り込むところで、おれも乗ってしまいたかったが、ドンコイ通りにいくかどうか聞いても要領を得ない。ドンコイ通りといえば、中心部のメイン・ストリートで、なかなかしゃれたところだから誰でも知っているだろう、と思っていたのだが、そうでもないようだった。バスは行ってしまい、ほかに二台程停まっていたが、やはり要領を得ないので、おいそれと乗れなかった。

 いったん戻ってツーリスト・インフォメーションに訊いてみようとしたのだが、インフォメーションと書いてある机はみなタクシー斡旋所で、いいからタクシーに乗りなとしかいわれない。しかし、タンソンニュットのタクシーは悪辣なことで有名なので、またバス乗り場に戻って、どうしたものかとうろうろした。

 この有様をラインしてみると二年前空港バスに乗ったときの番号を覚えていたのか、Oが一五二番バスなら行くんじゃないかと返信してきたので、賭けてみることにした。

 バスは荷物代をとるらしく、おれの直後に入ってきたスーツケースの兄ちゃん(東アジア系と思われた)はきっちりと別料金を取られていた。しかし、おれは小さめの三三リッターはいるザックだったので何も言われなかった。

 バスは出発してバイクが溢れた街をゆく。前乗ったときの記憶を動員して大丈夫かどうか確認するのだが、二年前と同じ道を行っているような気がする。そろそろ知っているところに出てくるのでは、と緊張して窓の外に目をやったが、あ、統一記念会堂だ、やっぱり二年前にいった南ベトナムの旧大統領官邸が大写しになった。もうこれで結構あとは勘でなんとかなるだろうと多寡をくくって、ちょうど下りようとしているおっさんのあとについて、下りてしまった。

統一記念会堂の正面の道はずっと向こうにある動物園まで続いており、ドンコイ通りとも交差していたと記憶していたが、どうも違っていて、仕方ないのでめちゃくちゃに歩いた。すぐ近くにベンタン市場があるはずだった。それを頼りにいけば完全に土地勘のあるところにたどり着ける。しかしない。さまよううちにロッテ・デパートを発見。覚えてる、と思ったが記憶が定かでない。どこもかしこも見たことがある気がしたがやはり定かでない。二〇分も歩いたろうか、ベンタン市場に似た建物を発見、助かったと思ったが似て非なる役所かなんかの建物だった。陰になっている方に廻ってみるうちに、レックス・ホテルを発見して近いことを悟る。ホテル改装中の看板を見て不吉な予感をもちながら歩く。最近評判の悪いアゴダをつかった予約だが大丈夫だろうか。その奥からコンチネンタルがでてきた。




 チェックインが二時からということは知っていたが荷物を預かってもらおうとロビーに入っていった。入ってすぐ大きな花瓶に活けられたピンクと白の蘭の花が目に入った。その右奥に大きなホテルに不似合いな小さなカウンターがあり、そこがレセプションのようだ。歩いてゆき、今晩予約している旨伝えるとパスポートを求められた。

二年前サイゴンを訪れたときの宿はマジェスティックだった。歴史のあるこのコンチネンタルと同じドンコイ通りの高級ホテル同士どっちがいいだろうと、ホテルマンの所作、言葉遣い、どうしても気になった。マジェスティックのレセプションはおれを長旅とみたのか、チェックインは二時からだが必要なら、ジムのシャワーを使っていいといってくれた。コンチネンタルは、五〇ドルで早く部屋に入れ、ホテルの朝飯をつけることができるが希望するか? ということだった。なんとなくマジェスティックに軍配を上げたい気分だった。

 朝飯は明日食べられるから、街のを食べた方がよかろう、と辞退して荷物をあづけて街に出た。何度も来ているサイゴンなのにまだ街の距離感をつかみかねているのでドンコイ通りを川沿い、つまり去年泊まったマジェスティックの所まで歩いた。飯屋を探すのに、もとより日本でおいしい店の情報をチャットGPTを使って調べてあったのだが、入国審査と空港脱出の手段と、その後の彷徨でずいぶん時間がたってしまっていた。すぐにでも糖分だけでも摂りたい、と思っている所にハイランド・コーヒーという大きなコーヒー・チェーンの店が見つかったので、うんと甘そうなやつを適当に指さしながら頼んだ。リモコンを渡され奥のテーブル席に座り、待ったが、呼び出されて一口飲むと、ベトナムにしては甘さ控えめの豆乳を使ったラテであった。見た目石榴の実のような赤いものが入っていて、不思議な食感だったが、あまりコーヒーに入れる意義を感じなかった。

 ドンコイ通りを歩いたことで、土地勘を取り戻したおれはなんとなくファングーラオ通りに足を向けた。ここで明日カンボジアに向かうバスを手配しなくてはならない。まだ開店していないが高島屋を見つけたときは嬉しかった。ベンタン市場の前も無事通過した。チャンフンダオ通りとファングーラオ通りの分かれ目の所にマクドナルドがあった。飯屋を探すのが面倒になってきたのでここで朝飯をと思ってはいっていくと、なぜか店員がひとかたまりになって何か食べており、今は営業していないからと追い出されてしまった。

 先ほど糖分を摂ったのでなんとか大丈夫そうだった。ファングーラオを歩きながらカンボジアへ行くバスの代理店を探した。一軒の旅行代理店を外から覗いていると、中では従業員が電話の真っ最中だった。覗き込んでいるおれに電話をしながら自分の店のパンフレットを渡してくれた。バイクに追い立てられながら、でこぼこの道を歩いた。データム通りの手前にパッカー宿街があったので懐かしくなって寄り道した。バイタクの運転手が寄ってきて、どこに行くんだと訊くのでカンボジアに行くバスを手配しに、と答えながらも歩度は緩めなかった。データムで昔のままの所はないか、と探したが四半世紀前のままの所はないようだった。

ファングーラオに戻り少し先にあるバーガー・キングのあたりにバス屋はあるはずだった。カンボジアと書いてある代理店を見つけて外から様子を見た。Ibisという看板があって、ここは日本で調べた情報にあったのを思い出した。カウンターに座ってカンボジアに行きたいんだが、というと、ドル建てで値段を提示してきた。大事なドルを使いたくなかったので、空港で替えたドンで払えないかと訊くと大丈夫ということだった。思ったより安い値段だったのでここでいいや、と思った。

 糖分を摂ったとはいえ、朝飯を喰っていない分脱力した感じがつきまとった。ファングーラオ通りを戻りながら、近場で済ましてしまおうと思っているところに、ちょうどフォー屋が目に入った。もう一一時近い遅い朝飯だからか客は誰もいない。この辺はパッカー街だから外人がいきなりはいってきても驚かないだろう。気楽な気分ではいることができた。

 メニューを見て適当なものを指さして注文した。牛肉のフォー。八〇〇〇ドンだった。添えられてきたハーブをむしりこれも別皿できた生のもやしを丼にぶち込んでスープに浸し、ライムの汁をかけて麵をすすった。うまい。こんなパッカー街だから味もへったくれもないところではないかと想像していたが、予想外にうまいものに巡り会えた。空腹なのもあるだろうが、それを割り引いてもなかなかのお店だった。

 空腹が満ちると今度は甘いものが食べたくなった。果物がいい。思い当たるところがあったので、ファングーラオをもときた方向に遡った。いちど市場の前を通り過ぎて高島屋まで行きトイレを借りた。左手に渡らねばならないが、バイクや車がたくさん来るから気をつけてドライバーと目を合わせながらゆっくりと渡り、ベンタン市場にたどり着いた。

 朝空港バスを降りた統一記念会堂の南、サイゴンの中心部にあるベンタン市場は、その地の利もあって外国人が多くやってくる。生活の市場というより観光名所になりつつあったが、それでも、市中よりはいくらか安く、活気も楽しい場所になっている。正面の入り口から入っていくとまず土産物屋、生地屋があり、ハローと声をかけられる。相手をせずにどんどん中に入っていくと左手にジュース屋が並んでいて客引きの手強そうなおばちゃんが、のべつ幕なしに人に声をかけている。ここがおれの目当ての場所で、声をかけてきたおばちゃんにメニューを渡された。マンゴーと告げるとしばらく待たされた。切ったマンゴーに練乳と氷を入れてシロップをレードルで何杯かミキサーで破砕して出てきたマンゴー・ジュースは、ちょっと遅くなった食後のデザートとして最上級であった。脳天まで届く冷たさは東南アジアにやってきたことをつよく感じさせた。

 昼も近くなったが、先ほど食べたばかりであった。腹具合はまだ食べられる気がしたが、どうしようかにわかに決められなかった。足は宿のあるドンコイ通りにむいた。この周辺で飲茶が食べられるお店をかねてから調べてあった。

 飲茶は東南アジア一円に散らばる中国広東省をルーツにした華僑の食べ物である。できる限り土地の食べ物をと思って旅しているが、華僑だってこの東南アジアに強い力を持つ経済的、文化的担い手に他ならない。東南アジアどこに行っても飲茶を探し、食べることを楽しみにしているが、これも東南アジアの楽しみ方の一つであろう。

 ドンコイ通り近くの飲茶は點都得(ディム・トゥ・タック)といいミシュランからビブグルマンをもらった実力派であった。グーグル・マップの世話になりながらドンコイから一本入った大きなホテルの前にそれはあった。なかなかの人気店で満席のようだった。豚の丸焼きを食べているのを見かけたが、てらてらと油がひかって、たいへんおいしそうであった。誰か連れがいたらはいってみたかもしれないが、一人だとなんだかこんな高級そうな所はおっくうで、おれは前を素通りした。

 ホーチミン、つまりサイゴンを訪れるのは数えてみれば五度目であった。観光地もだいたいいってしまっていて、いく気がしない。この周辺で気になったものを写真に収めて宿にチェックインできる時間を待つことにした。

 ドンコイ通りのお店たちをよく見て回ると、巨大なハリセンボンの人形を看板のようにぶら下げた“フグ屋”をみつけた。道の脇に立っている広告オブジェが気になって何枚か撮った。炎天下行ったり来たりすると少し疲れて、喫茶店にでも入ろうと思った。これもかねてから調べてあった地元民に人気という(ベトナム語のメディアに取り上げられたものをチャットgptに調べてもらった)カフェの住所を携帯に収めてあった。番地をたどっていったが、残念ながら目的のお店はなくなっていた。

しかたないので近くにあったチュングエンにはいった。ベトナムで有名なコーヒー・チェーンである。席を確保してからカウンターに行き、メニューを見せてもらったが、なんだか面倒になり、おすすめは? と訊いてみた。店員はホットとアイスとどっちがいいかと確認してから、おすすめを指さしてくれた。

 カフェ・スア・ダーというのがおすすめのやつで、コーヒーに練乳、そして氷がついたお盆が運ばれてきた。小さいコップにおなじみのベトナム式コーヒー・メーカーが乗り、一滴一滴落ち始めている。大きいコップには氷が入れられており、落ちたコーヒーをここに注いで飲むのである。もちろんスア(練乳)も小さなピッチャーに入れられ、大きいコップにコーヒーを入れるタイミングで一緒に注ぐようになっている。

滴一滴コップに落ちるコーヒーの待つまの息やここはベトナム

早く飲みたいのだがなかなか落ちない。焦っても仕方がなく、ここは東京ではない。流れる時間はベトナム時間なのだ。することもなく、早く飲みたいと息を詰めてコップを見つめる。日本人のせっかちさでコーヒー・メーカーを傾けて落ちるのを早め、やっと飲める分だけコップにコーヒーが落ちた。それを大きなコップに注ぎ込み、小さなピッチャーに入れられた練乳も一緒に流し込んだ。練乳は普通のものより茶色っぽく、甘さが抑えられたものだった。スプーンで大きなコップをかき混ぜるとやっと飲むことができるのだが、チョコレートのような香りがほのかにし、かねてから運んでこられた蓮の葉茶と交互に味わうと香りのデュエットが、普通のコーヒーを超えた味わいをもたらしてくれる。うーん、こういう飲み方は知っていたが、改めて味わってみると、独自のコーヒー文化を創りあげたベトナム人がなかなか偉い人たちに思えた。

チュングエンでコーヒーが落ちるのを待っているうちに宿のチェックイン時間がやってきた。いい宿だからのんびりしたい。宿まで歩いて、例の小さなカウンターにいたホテルマンに、チェックインしたい旨いうと、パスポートを求められ、少しの間なにかを探している。

——今朝、ここに来ましたか?
——ええ。
——それでですか。チェックイン待ちの方の名前の中にお名前がありませんでした。お部屋ご用意できています。

部屋のカード・キーを渡され、二階(ファースト・フロア)の部屋であることを告げられた。預けた荷物を受け取りにロビーの反対側のカウンターに行くと、お部屋にお持ちしますのでお先にお部屋に行ってください、という答えだった。

 部屋は冷房がほんのりとついていた。暑い中ほっつき歩いていたおれはそれをホスピタリティの表れのように感じた。追いかけるように荷物は運ばれてきて、おれは幾ばくかのチップをおっさんに渡した。そのあとウェルカム・フルーツを持ったおばさんが、部屋にやってきてドラゴン・フルーツとバナナを二本、置いていった。

 荷物をいくらか開け、ベッドに勢いよく寝転び、テレビをつけてNHKを見た。この時間は子供向けの番組のようだった。シャワーを浴び、汗を流すとひと心地ついた。部屋はザック置くための台があるのが嬉しかった。二間あって、飴色のニスが塗られた重い木製の椅子が四つ、小さなテーブルを間に向き合っていた。ウェルカム・フルーツはこのテーブルに置かれ、そのほかにコーヒーを入れて飲むようにセットが置いてあった。水が二本あって、とりあえずそれを喉に流し込んだ。




 外は雲行きが怪しくなってきて、出られなくなった。せっかくのコンチネンタルなのでゆっくりしたかったおれは、悠々とテレビを見ていた。日本と二時間遅れで定時ニュースをやっていた。自民党の総裁選がこの日あって、小泉進次郎が負けたようだった。薄暗くなり始めたころに雨がやんだ。昼を食べそびれたので、腹が減っていた。ベトナミースの晩飯を食べるため外に出た。

 このドンコイで、ベトナム・メディアで賞賛されるようなおいしいお店をチャットgptを使って調べてあったのだが、先ほどカフェを探していた時にどうやらなくなってしまったようだというのがわかっていた。

 なんとなく足はベンタン市場の方向に向き、その方向に一カ所、調べがついていた料理屋があったので探してみた。その途中、外から覗いた土産物屋で素敵な焼き物を見つけてしまった。二年前、ハノイ近郊のバチャン焼きのお店で探して見つからなかったこっちの伝統的絵付けの焼き物の数々、いいなあ、と思ったおれはふらふらとお店に入り込んでしまった。なかなかしゃれたお店で、焼き物もよかったが、竹にきれいに絵付けしたペン立てがとてもよかった。このペン立て、二〇万ドン(約一一〇〇円)。旅を始めたばかりで、荷物を増やしていいのだろうか、買わないときっと後悔する、とはわかっていたがベトナムで一一〇〇円は考え込まないと使えない金額だった。おれは残念に思いながらお店を出た。

 調べがついていた料理屋は大通りから横丁に入ったところにあった。なかなか粋な風情だったが踏ん切りがつかなくてまた大通りに戻った。いつの間にかベンタン市場のところまでやってきてしまっていた。高島屋が斜向かいにあって、そこでもいいか、とも思ったのだがなかなか気に入った店がない。ベンタン市場を囲む道路を右に行ったところに何軒か食べ物屋があって、覗いていると、入っていきな、と声をかけられた。今宵の晩飯はここということになった。

 ありがたいことに英語のメニューがある店だった。声をかけてくれた兄ちゃんはなかなかの気遣いで、飲み物は? もう少しで来るからな、とことごとに声をかけてくれた。出てきたのは鶏のモモをパリパリに焼いたものと卵チャーハンだった。おいしく焼けていて、おかげでこの晩餐も当たりだと思えた。サイゴン・ビールと一緒に平らげるとまたデザートが欲しくなった。昼に飲んだマンゴー・ジュースとも今宵限りでおさらばだったので、目の前のベンタン市場に入って同じ店で注文した。

 小雨交じりの中コンチネンタルに戻った。部屋ではまた日本のニュースを見て、ドラゴン・フルーツを切って食べた。

〈つづく〉



沈没とマラソン

(第1回/全14回)

         

望月竹一




  序章


 その日、静岡県西部は気温四〇度予想、まるで五月のデリーのようだといったのは一緒に牛の家に遊びにいったOで、そんな暑さの中でこの旅の発端は生まれた。深夜二時に及ぶ酒盛りの中、若年時の放浪生活中に牛が長くいたというスコタイで、マラソン大会はないかと夢想しだしたのが最初で、聞きつけた検索の達人Oが探し始め、あるよ、本当にある、といいだしたあたりから話は盛り上がり、全会一致で行こう行こう、となったのだった。


 それから一年といくらか、おれたちはラインで連絡をとりながら各自旅の準備を進めたわけだが、おれはただタイに行くだけでは面白くないと思い始めていた。


 東京からバンコクに向かうのにサイゴンでトランジットするのはいいとして、よくよく、飛行機代の内訳を調べてみれば、東京からサイゴンまでの飛行機代は二〇〇〇〇円。なんと魅力的なお値段なことか、できることなら飛行機などにこれ以上の金を使いたくないと思い始めたのが今度の旅程をとった理由であった。


 久しぶりにサイゴンからバスでカンボジアを横断してバンコクまで行ってやろう。だいたい、おれはパソコン、ネットが大好きではあるのだが、便利すぎる現在を疑いもなく享受することを面白くないと思う癖があって、本当は飛行機などより船や電車の旅がしたく、去年は電車で下関まで行って船で韓国に渡った。こっちの方が合理的だとわかっても本当はアプリで宿を予約しておくのも嫌。ラインで旅の便りを出すのも楽しいっていえば楽しいのだが、どこかから絵はがきでも出すのも楽しいと思うたちで、Oに嘲笑されて仕方なく現代化された旅を最近はしている。


 ただ、旅の計画を練っているところで問題が生じてタイとカンボジアが国境で紛争を始めたという。調べたところでは陸路国境はその当時開いてはいるようだったが、大事をとってシェムリアップからバンコクまでは飛行機で飛ぶことにした。





〈つづく〉


先週の水曜日、銀座に写真展を観に行った。


当店のお客様でジャーナリストの近重さんの写真展「祈りと願い未来へ。8月6日広島平和公園」は近重さんが25年もの間撮影し続けてきた、8月6日の広島平和公園に集まる人々の写真展だ。


ライカで撮影された白黒写真が、白と黒のフレームに入れられ展示されていた。色や撮り手の感情をできる限り排除したような空間は、8月の夕暮れ時のような穏やかな静謐さに満ちていた。


多くの人々が首を垂れた後ろ姿の写真を指差し

「写真を整理していて、この写真が20世紀最後の黙禱の瞬間だって分かったんだよね」

とにこやかに話す近重さん。


今回は原爆の日を扱った展示ではあるのだけど、なるべく重苦しいものにしたくなかった、という。


原爆で受けた傷や、胸が苦しくなるような悲しみを明らかにした写真は一枚もない。だからこそ、静かに手を合わせる人々からは「願い」が聞こえてくる。


最近の写真に近づくにつれ、そこには笑顔さえ多くなる。彼らは自分たちが原爆を体験していない若い世代だ。


近重さんは彼の元々の性質がそうなのか、ジャーナリストという職業を通じて得たものなのか分からないが、人との距離感を詰めることがとても上手で、その笑顔には他人に胸襟を開かせる柔和さと、朗らかさがある。


その朗らかさがあってこそ、カメラを向けられた人たちの自然な笑顔が生まれるのだろう。


「原爆の日」というと、年数が経っているとはいえ、そこには厳かな、ある意味の堅苦しさがあるが、その笑顔はまるでお盆に田舎の祖父母を訪れた孫の笑顔のようにも見える。


それで良いのだと思う。


8月6日に若い世代がここにこうして笑顔で集まれる。それこそが平和である事の証ではないか。


近重さんの視線の先にあった25年間の広島を世代を超えて共有できて良かったと思った。










海外旅行に行くにあたって、全ての人に平等に最も重要な携行品と言える「パスポート」。


初めてパスポートを取ったのは大学生の時。生まれて初めての海外旅行に体育会の同期3人で行った時だった。


行き先は「タイ」。


なぜタイなのか?


一緒に行った同期のTと私は当時、三島由紀夫に心酔していた。なので、彼の代表作の一つ「豊饒の海」の第3巻「暁の寺」の舞台がタイであるということだけで、タイを目指すには十分な理由になったのだ。初めて明かす、私とタイの最初の接点笑


そんな訳で、私の人生初のパスポートにはタイのスタンプが押されることになったのだ。


最も印象深いパスポートといえば、やはりアジア横断時のものだろう。当時は今以上にビザが必要な国が多く、1ページ使ったビザがいくつも貼られている。ひとところに長く滞在する性質だったおかげでなんとかギリギリ増ページせずに済んだ。


一年以上、常にマネーベルトの中に入れて短パンの中に隠していたので、汗まみれの垢まみれ。表紙の文字が全部消えて、無地のパスポートになったけど、それに関してイミグレでとやかく言われたことはなかった。きっと私以外にも結構そういう人はいるのだろう。


そして、前回の取得が2020年2月末。3月のタイ行きに合わせてパスポートを更新した。


当時、チェンライのABONZOという農園の豆を仕入れていたのだが、ABONZOが初めてバンコクで開催されるタイランドコーヒーフェスタに出店するというので、豆を輸入していたsecond story coffee roastersのタニーさんと「それは行かねば!」ということになったのだ。


実は年始にエアアジアがセールをやっていた時、既に9月の分のチケットも購入していた。その時点で私は生まれて初めて「タイへの2往復分のチケット」を持っていた。ある意味、人生で最高に豊かな時期だった。


しかし、一つ心配することがあった。

それは、正体不明のウイルスが中国で猛威を振るっていて、日本でも徐々に感染者が増えていることだった。


そのウイルスはCOVID-19、つまり新型コロナウイルス。パスポートを申請した時はタイ渡航に関してほとんど問題ない感じだったが、2月下旬になって受け取る頃には、タイに行くことはできるが、空港で37.5℃以上体温があったら入国できない、という状況になっていた。


フライトは確か3月11日だったと記憶しているが、ギリギリまで本当に迷った。だけど、結局行かないことにした。一緒に行く予定のタニーさんが航空券を買っていなかったこともあって、早々に行くことをやめたことも理由の一つだが、どんなウイルスかも分からなかったような時期に海外に行くことで、お客様に要らぬ心配や不信感を持ってほしくなかった、というのが大きかった。


結局、更新したばかりのパスポートはそのまま2年半使われることがなかった。つまり、5年有効なパスポートの半分を無駄にした。


そして、そのパスポートが期限切れになり、つい先日、10月のタイ渡航に向けてパスポートを申請した。


今回、初めてオンライン申請をした。


差し当たって証明写真が必要だ。写真屋で働いていた頃は、パスポート用の証明写真を撮る時が一番緊張感があった。パスポート写真には細かい規定があり、受理されなかった場合、クレームに直結するからだ。特にフィルムで撮影していた頃の緊張感はすごかった。現像して見たら使えない写真で、再度撮影させていただいたことも何度かあった。


そんな私自身にはパスポート写真にこだわりがあった。それは「白黒写真を使う」ということ。初めてパスポートを作った際、都庁の写真屋で撮影したのが白黒の証明写真だった。理由は覚えていないのだが、確か白黒にしかできない訳があった、と記憶している。それ以降、なんとなく験を担いでずっとパスポートの写真は白黒を使用していた。


しかし、今回はオンラインで突き返されたら面倒だと思ってカラーにした。


もう一つ、自筆サインはアルファベットの筆記体で書くというのもこだわりなのだが、それは今回も引き続きそうした。これは、バックパッカー時代にトラベラーズチェックを使用していたことが理由で、トラベラーズチェックは使用前に一箇所、使用時に一箇所と、2箇所にパスポートと同じサインをする必要がある。枚数が多いと結構しんどいので、なるべく早く書けるように筆記体にしていた。



パスポートの写真を撮影する際、店員さんに「今はメガネを外すことが推奨されてます」と言われて、これも20年以上ぶりにメガネなしの証明写真を撮影した。


メガネなしのカラー写真の自分は酷く年老いて疲労感に満ちていて絶望しかなかった。


この5年間で一足飛びに老人になり、体も精神も壊して、それに相応しい禍々しく不快感に満ちた面構えの写真となった。


それを見て、もうこだわりとか験担ぎとかどうでもいいな、と思った。


10月にタイに行くにはまだまだ越えなければならない巨大な壁がいくつもある。


それでも、これで少しだけ気分が前進したような、ある意味で諦めとも取れる気分になってきたのだった。