ブログをほったらかして、もう一年が経った。

 

 今年は就職活動及び修士論文のことで、忙しくて、苦しい一年になってしまうのであろう。

 

 私はここで自分の半年間の就職活動の感想を素朴に記録したいと考え、またつまらない文章になりそう。その内容はもしかしたら、消極的で、厭世的だと思われるかもれしない。もしかしたら、負け犬の遠吠えだと思われるかもしれない。もしかしたら、口実ばかりつけているものだと思われるかもしれない。いかにもその通りである。

 私は外国人である。日本に来て、もはや4年目になった。最初は日本で就職しようなど全く考えていなかった。だたし、何らかの理由で日本で就職せざるを得ないこととなってしまった。

 今年の4月からちょこちょこ会社の説明会を参加し、エントリシートを書くことに励み、どうか夏休みまで就職先が決まりますようにと祈りながら、意気揚々と就職活動を始めた。

 数えてみれば、私が出したエントリシートは90社を超え、そのうち、一次面接に行けたのが20社も足らず、そのうちの1社から内定をもらった。

 

エピソード1

 ある日、とある超中小企業の説明会に参加し、私を含めて、女性は10人ほどいて、男性は5、6人程度だった。総合職と事務職を交えた説明会のため、途中で会社側の人に、「事務職を応募する方は何人ぐらい、いらっしゃいますか?」って聞かれた時、私以外、ほとんどの女の子が手を挙げた。私はただどっちにするかよくわからないだけで、挙手しなかった。でも、やはりその挙手の数に驚いた。

 今まで、男の子たちと同じように教育を受けてきて、その中にだれにも負けないように勉強を励んできた女の子もいると思う。しかし、なぜ、就職となると、事務職を選ぶだろう?確かに、営業職となると、女の子にはきついが、そもそも事務職or一般職という妙な設定に納得ができない。

 

エピソード2

 以前HISの一次面接(集団面接)に参加したことがあり、面接が終わった頃、採用担当は合否にかかわらず、一週間以内必ず連絡が来ると伝えた。

 さすが、一応大手だし、たとえ一週間じゃなくても、いずれ結果の通知が来るだろうと思ったら、もう3,4か月経ってしまった今でも、何の連絡もきていない。

 今後、絶対HISを利用しないことを心に誓った。ちなみに、関西エリアである。

 

エピソード3

 別の日、大阪にある家具メーカーの一次面接を受けに行った。一次面接と言えば、採用担当や、中小企業の場合、専務か常務が出てきた場合もあるっていうイメージがあったが、その会社では、社長が出てきた。それなら、3回面接をやる必要なくないと心でこっそり思った。

 入った瞬間に、君、背低いな、何センチ?って社長に聞かれた。

 156センチですと私は答えた。

 正直、低いって言われるのが子供のころからいやなことで、それでも、一社ぐらい内定もらいたいと思い、頑張って微笑みを保ちつつ、相手からの連続の駄目だしに耐えようとしていた。

 

 結局、落ちてしまった。実は面接が終わった瞬間も分かった。あの社長は最後、一言も言わず、さっさと行ってしまった。

 なんていう嫌なやつ、人を尊重することすらできない人は、しょせん中小企業どまりだと思う。まあ、たぶん。

 

エピソード4

 ある企業合同説明に行ったときのこと。そこに約30社の企業があった。

 私は一社一社回り、「すみません、外国人は採用しますか?」って聞いてみた。ほとんどの会社に断られた。

 断ってない企業は、飲食店のみ。

 あの時、本当に絶望的だった。

 何で、外国人だめ?

 海外で仕事を探すとなると、このようなことは当たり前だと覚悟しているのに、やはりいざとなると、何で、外国人ダメって問いたくなる。

 

 あの時もうすでに8月、同級生の中に、内定をもらった人もすでにいた。でも、私はつづけるしかない、やるしかない、しかし、チャンスすらもらえなかった。

 泣きそうで、帰りの道で泣いた。

 

エピソード5

 大阪の中国人が開いた会社に応募したことがある。

 それはバラック中のブラック。

 まず、出勤はやたらに早くて、時々早朝勉強会を行い、7時半ぐらいの出勤を強いられる。

 社内の管理も妙で、どうみても、中国の小学校っぽい雰囲気だった。

 

 一応、外国人を募集しているということで、乗り込んでみた。

 面接中、眠そうな面接官二人(早朝勉強会がきつかったのでは?)、やるきなさそうに質問をしてくる。

 

 一つの質問は、あなたにとって5つの重要なものを上げてくださいっていうのがあって、私はしばらく沈黙し、ちょっと考え込んだ。その間に、一人の面接官は鼻で笑って、そんなに考える必要あるっていった。

 

 社会人には、クズがいっぱいいる。ただ、このようなだめな人間に判断されるのがさらに嫌。

 

 

 エピソード6

 人は自分が無能な人間を認めたくない。

 たとえ、面接で何度も落ちても、同じ外国人である他人がすでに内定をもらっても、何か口実をつけて、自分が悪いのではなく、この会社が悪いの、自分の学校が悪いの、相手が見る目がないのとか。

 

 それが他人に言いふらし、そう信じようとした。

 でも、水を差す友達がいると、何でもかんでも逃避できなくなる

 

 「私の周りに、そこそこの会社の内定をもらっている留学生いっぱいいるよ。文句ばかり言わないで、自分に何か原因があるのではないか」

 耳が痛い。

 わかってるよ、でも、知りたくない。

 

 

3

 ある日、つんぼはこっそりと私に手招きした。私が駆け寄ると、彼は手のひらを開き、中には金の指輪が地図のようにしわが入っていたザラザラな手に転がっていた。
 私は生まれて初めて金の物を見た。家にも見たことがなければ、お母さんがはめたことも見たことがなかった。それでも、大変貴重なものだとわかっている。 
 あの日、彼はやけに真面目な顔をしていた。ほほえみもせずに、じっとわたしの方を見つめて、あの金指輪を差し出し、私に受け取るように合図した。私は怖くて、必死に頭を左右に振り、両手を背後において、微塵とも動こうとしなかった。それを見ると、彼は地面にしゃがみ込み、字を書いた――もうすぐ別れるので、記念にあなたにあげる。
 私はどう答えたらいいかわからなくて、サヨナラといい、駆けて行った。途中で振り返ると、彼はうなだれて、呆然と手のひらを見つめている。何を考えているのかな。
 同じ日、家に帰ると、お母さんは今日戦線が家庭訪問に来たと教えた。私より少し早く私の家に着いたという。
 家庭訪問は一大事なことで,普通は先生が事前に子供たちに通知し、学校を早めに終わらせ、その後、子供に付き添われ、家に訪問する。しかし、今回は不意打ちをかけられたので、妙に思われ、自分が何か悪い事でもしたのかと一晩中どぎまぎしていた。ところが、お母さんも何も教えてくれなかった。
 先生の突然すぎる家庭訪問のせいもあって、つんぼが金指輪をあげようとすることを言うのをすっかり忘れてしまった。

 翌日の朝、先生は優しく私を教室の隅に呼び寄せて、小声であの水を担う軍人との知り合う過程を聞いていた。
 答えた、すべて答えた。しかし、何か過ちをしたのかが分からなくて、逆に不安でしょうがなかった。先生にこっそりと”彼はあなたに猥褻な事をしたことあるのか?”と聞かれたとき、猥褻か何か、そんな意味不明な言葉を念頭にもおかず、ただ先生がつんぼに誤解をしていることだけを感じ取った。でも猥褻という言葉はきっと悪い言葉だ。そうでなければ、なぜ先生はわざわざ子供が分からない言葉を使うわけ? 
 あまりにもおこっとので、泣き出した。先生が席に戻るのを許す前に、ぷりぷりと席に戻って、体を机に投げ出し、ワイワイ泣いていた。あの日の放課後、先生は私と手をつないで,校門まで私を送った。私を待っているつんぼのところを通る時も、立ち止まらないように命じた。
 つんぼと目が合わせたけれど、目が赤くて、手真似もできなかったので、行くしかなったのだ。先生は、つんぼに微笑んで、頭を軽く下げた。
 校門を出た途端、先生は怖い顔をして、私に、”もし、明日またあの兵と遊んだら、先生は校長先生に話すわよ、罰則もね”といった。私が泣きだし、逃げようとしたが、彼女に捕まえられ、引き戻された。”答えろ!早く!”。私はうなずいた。反抗できなかったのだ。
 
 2

 私たちはいつもしゃがみ込んで地面に字を書いていた。始めは「火」を書いて、続いて「炊」と「吹」を書いた。「炊」を説明する時、私は火を扇ぐ仕草をした。「吹」の場合は、頬を膨らませ、ラッパ手の真似をした。つんぼは飲み込みがよくて、すぐに理解した。自分の頭をポンポンと叩いて、知面に「笨」(注:中国語では、アホの意味)を書こうとしたが、間違えて、「茶」となった。誤字だと私は悟って、彼の頭をポンと叩いた。
 あの頃、一人の子供にとっては、栄光たる日々だった。授業が始まる前に、まず小さな先生をやって、大男と字を書く。
 つんぼは間抜けではない。彼は手振りで私に、水桶の水が零れないのは水面に大きな葉っぱを浮かべさせたからだと教えてくれた。確かに一理がある。

 その後、クラスでつんぼの身の上の話を語った。つんぼは四川省出身で、昔田舎で畑を耕していた。ある日、嫁が出産に臨んでいるので、お母さんに頼まれて、省都へ薬を買いに行くところを、通りかかった軍隊にさらわれ、それ以来、軍隊を離脱することができなかった。産んだ子供の性別もわからないまま、台湾に来た。
 物語は「康楽時間」に語られ、聞いていたみんなはぽかんとした。語り終えた後、先生は即座に結論を下した。つんぼの話が全くのウソ、真に受けないでとみんなに話した。
 しかし、それは私とつんぼが手振りしたり、絵を描いたり、字を書いたりし、さんざん苦労してようやくここまでまとめた話だった。その日、つんぼは大きな手で私の髪をもしゃもしゃし、服を引っ張って正しながら、いつもより悲しそうな眼差しで私を見つめていた。きっと、自分のまだ見ぬ娘は目の前の私に見えるだろう。
 
 今、日直のお湯を運ぶ仕事はつんぼが代わってやってくれた。私も朝の登校と放課後帰る前に、先に彼とあいさつして、わかれる。
 家族も私が「大友達」がいることを知っていて、特にお湯を運んでくれることに感謝している。母は本来お湯を運ぶことで子供たちがやけどをするのではかないかと心配しているけれど、先生を恐れて、学校に抗議することができなかった。

 知らず知らずのうちに、日々が経ってしまった。つんぼはただ毎日ぼんやりと私を待っている。校門で私が姿を現すたびに、顔に花が咲いたように喜んでいた。最後、ランドセルまで取り上げて、背負ってくれた。教室のドアまで送って、その後、名残惜しそうに水桶を担って、去って行った。
 彼はお金を持っていない。プレゼントにいつも芭蕉の葉っぱだった。細心に切り取られ、裂け目が入っていない葉っぱばかりだった。それで、私は三、五日間ごとに、緑色の「下敷き」でテーブルを飾っていた。しかし、先生はなぜか心配そうな目つきで私を眺めていた。
 つんぼにもプレゼントをあげる。美術の授業の成績や、一個の梅干し、でなければ、放課後、一緒にシーソーをやる。わたしが上昇と言ったら、つんぼは手で片方を押し下げる。下降と言ったら、ゆっくりと手を放す。私に傷つけるのを恐れている。私たちの遊び、いつも静かで、たそがれの校庭に、2枚の影絵に過ぎなかった。

続き
 
1

 あの日、赤い服なんか着ていなかったのに、通学路でとある狂った水牛に追われていた。
 かけ始めたとき、水牛が途中で気が変わって、追うのをあきらめるか、他の通行人を目標にするかと思ったら、結局私を目がけて、粘り強く追いかけ続けた。泣く余裕もなく、ただひたすら突っ走るほかなかった。その恐ろしい四本の蹄を駆使して、勢いよく角で突いてきた――いつも私のスカートすれすれまで。
 ようやく教室に逃げ込んだが、水牛はまだ校庭の中で土を蹴ったりしていて、小学校の朝礼がそのせいで取り消された。生徒たちはびくびくして、水牛が教室に入り込むのを恐れているようだ。
 拡音器からなじみのある音楽がなく、単に重ねて”みなさん、教室にいてください、出ていってはいけません、出ていってはいけません”というアナウンスが流れていた。
 あの牛を学校まで導いてきた私は両手がしっかりと窓の枠をつかんで,ぜいぜいと喘いでいた。生徒たちは取り出した”ボーイスカウトの棒”で教室の戸を防いだ。一方、先生方といえば、職員室に隠れて,窓と戸を立て切った。

 あいにくこの日、私の当番だった。毎日風紀長が黒板に日直さんの名前を書きとめ、二人の生徒が共同でやっている。その風紀長が誰なのか忘れたが、とにかく先生の取り巻きで、いつも私たちを圧迫していた。
 私もたまに康楽長に選ばれる。ところが,康楽長は風紀長と比べたら,その威勢がだいぶ劣っている。
 マッド水牛がまだ校庭内でうろうろしている。しかし、風紀長は当日クラス用の水差しが空だったということに気づいた。私たち小学生の頃,水筒を持参することなどなかった。教室の後ろに大きな水差しが置いてあり、そこにグラス一個をみんなで使い、喉が渇いた人が飲めに行けばいいだけなことだ。ところで、水差しのお湯を日直さんが学校の厨房から教室まで運んで、補給することになっている。
 水牛が発狂している。だが、私は風紀長に今すぐお湯を運びに行け、じゃなければ、名前を書き込むぞと脅かされた(注:中国では,幹事がクラスで過ちを犯した生徒の名前をノートに書き込んで、あとで先生に提出する、先生がその生徒をしかることもある)。もう一人の日直さんは泣き出して,死んでも行きたがらないと、彼女が泣いたのは名前が書きこまれたのだ。私はしょうがなく、水差しを下げて、外に飛び出した。牛に目もくれず、一所懸命に厨房につながる廊下を大急ぎで疾走した。
 水差しにお湯が注がれた後、もはや教室に駆け戻ることができない。かくして、わたしは廊下の門前にしゃがみこみ、遠くにいる牛を眺め、風紀長が名前を書きつけた生徒の事を先生に言いつけることを思い出し、しくしく泣き始めた。

 ちょうどその時、早朝、訓練に出た駐留軍が戻ってきた。駐留軍が”建国記念日”前、台湾の南部から台北に移り、しばらく学校に滞在している。 
 校庭を走り回る牛を軍人たちがものともしなかった。数百人が声を張り上げて、見知らぬ陣立てを使い、一歩一歩と牛を校外の野原まで追い払った。
 牛が遠のいたのを見届け、私は水差しを持ち上げて、重い足取りで教室を目指して進んだ。突然、静まり返った廊下で、背後からハアハア息をする声がした。驚きのあまり、足に力が抜け、水差しを捨てて、蹲り、手で頭を抱えた。しまった!牛が後ろに!

 ハアハア、まだ続いている。私は動くことができなかった。
 誰かに軽く縮んだ肩を叩かれた感触を覚え、ゆっくりと頭を上げてみた。目の前に、牛のような大きな飛び出ている両眼が私を覗き込んでいて、萌葱色が広がっていたのを感じた。
 私は立ち上がった。相手も水を運ぶ兵だ。口元を綻ばして、私に向かって、”あ、あ”の声を出しながら、手振りで何かを言おうとしている。彼の水桶は何と大きいことか。天秤棒一本で担いで、二つの桶の水面に青緑色の芭蕉の葉っぱが浮いている。真黒な肌に獅子鼻、顔はナンのごとくでかい、体つきは山のごとくたくましい、ゴム靴は小舟のごときだ。一瞥すると、粗野な雰囲気を放っている。また一瞥すると、実に目つきが柔らかくて、まるで純粋な子供のようだ。
 私は袖で顔を拭いた。あの兵、担っている水桶も下さずに、片方の手で軽々と私があらんかぎりの力を尽くして下げてた水差しを持ち上げ、手で道を案内しろという合図をした。それで、やせっぽちな私とお湯を合わせて、教室に送り込んだ。
 
 あの時、先生まだ来ていない。私は廊下の溝の隣にしゃがみ込み、石ころを拾って、どろどろした地面に字を書いた。あの人に、何の兵?と聞いてみた。あのつんぼは無邪気に笑い、水桶を下して、地面に書き始めた――“炊兵”(料理を作る兵)。炊の字は間違えて、“吹兵”となった。 
 その後、先生が廊下の遠くから姿を現した。私は急いで教室に戻ろうとしたが、つんぼの兵が握手をしたがったので、握手してあげた。彼は私の手を上下に揺さぶって、身体まで飛び上がるところだった。この上ないような歓喜な顔をした。
 ということで、つんぼは私の友達になった。あの時、私は小学4年生、勉強はさほど忙しくなかった。
 家に帰って、つんぼの話をすると、 母につんぼつんぼで呼ぶんじゃないと叱られた。私は笑い、彼は聞こえないよと言った。毎朝、つんぼに会うたびに、彼は水桶をよそに、躍り上がって迎えてくれた。

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