あしかのブログ

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今まで、あまり幸せではなかったのですが

なぜそれでも生きていたかというと希望があったからです。

 

びっくりするほど、どんなひどいときにも

なんでだろう、ちゃんと希望を持って生きていました。

 

私の人生のある時期、ひどい暴力に囲まれていた時には、

私の内側にはたくさん言葉があって、

苦しいときにはたくさんの言葉が浮かんで止まらずにそれをかき集めて書き留めて

書き出せばいよいよ言葉は累乗的に増えていき、私の書字スピードは一度も

言葉に追いつきませんでした。

その時に出てきた言葉は我ながらはっとしたり、稀有に思えたりして、

だから、いよいよ、自殺するときですら、

私は一度も誰にもさらされなかった私の言葉たちをとてもかわいそうと思い。

その時の私の希望は私が私であるということでした。

 

そうして2日目に目が覚めて仕方ない、とりあえず、もうしばし生きることとなり、

その後もずっと私が私であるということは希望であり続けました。

それは私の中には、言葉がたくさんあることで、私が読んできた言葉たちの美しさを私はちゃんと

覚えており、私が聴いた音楽の美しさをちゃんと愛しているという希望でした。

やがてそのあとは、生きるのであれば、仕方ない、現実的な能力を身に着けるよりほかないとなったときに

私は生きるというのにあまりに向いていない私自身に何度も打ちのめされたけれど、それでも

私は努力する能力はあったので、明日はもっとましになれるという希望がありました。

 

でも、この数か月、もうそんなものはなくなりました。当たり前すぎることだけれども

冷静に、論理的に考えれば、生きるということは悲惨なことで、全く救いがないことです。

こんなことを言うのがどれだけばかげて見えるかよく知っていますが、世の中から戦争がなくなったことは

なかったし、飢えや貧困も犯罪も、それにあたってしまったら、人は恐怖とひどい苦痛の中で死んでいくこと。

私は子供のころからそれがものすごく怖かった。辛いとかかわいそうじゃないんです。ずっと怖かった。眠れない

くらいに。だれかがそうであるのなら、いつか、過去か未来かに私がそうだとしか思えない。

いつもここに帰ってくる。私はいつも怖かったです。多分ミラーニューロンが発達しすぎてるんだと思う。

こういっちゃなんだけど、たぶん私、めちゃくちゃ善人です。リアルにどうして戦争が起こるか分かりません。昔から。

でも、そういう価値観を持っている自分が心底怖いんです。だって、戦争を怖がる気持ちって、生物に反していて、

それを人間性という美しいものと信じているけれども、人間性っていう教育の中に培養された自分が残酷さに耐えられない

そのこと自体もものすごく怖い。

恐怖がなくなったらどれだけ良いかな。私は恐怖以外のあらゆる感情に同情できないんです。なぜかっていうと、恐怖という

ものがあまりに切実だから。悲しみとか寂しさとか、そういうものに同情できない。逆にいうと私の持つ負の感情ってもとを

たどれば全部恐怖なんです。

 

話を戻します。

私はこの数か月、めちゃくちゃに体調が悪いです。いや、そんなこと言って月に何回もいろんな県に出張し、

2か月に一回は飛行機に乗り、平日は仕事に行けるし残業もしますが、予定がないときは全く

起き上がれません。ご飯を食べるのもひどくおっくうです。そんな中でも、昨日も偉い人と他県に出張しちゃんと

お酒を飲んできました。でもねえ、そういうの私本当にわからない、いくらやってもわからない。現実的なことをやってきた

この十年なのに、ゲージがゼロになったら、私、全く、全くわからないんです。なんで世の中の人が現実に生きるのかが。

ギリギリ農作物を耕すのはわかるんだけど、なぜ政治的に交渉したり、調整したり、改善を図ったりするのかが。いや、

わかりますよ、わかります。さすがに。理屈では。

 

でもね、私はね、そんな風に生きているのに、ひとつもわからないの。遠近感と物の大きさと距離感と重要度が

昨日初めて生まれ落ちたみたく、本当にわからなくなるんです。怖くなる。ていうか今すごく怖い。

何もわからない私を奥に隠しながら、ちゃんと現実的な私が、しゃべって判断して動いているそれが不思議で。

 

ここ数か月、あまりにも休みのたんびにあまりに長く眠り、しかも、極力「感じるな、考えるな、何も覚えるな」って

自分の頭に言い聞かせ続けたものだから、私、朝目覚めるたんびに、すべてが思い出せなくなります。まじで。

 

数秒考えた後、ああ、昨日はこうして、今日は何曜日で、今日は何をしなきゃならないのだっけとようやく思い出せますが

そうやってめちゃめちゃ、ごまかしてなんとか「わかっている」ふりをするのにすごく限界を感じていて

最初の話に戻ります、今の私、希望がなくてただただすごく怖いんです。

 

希望がないのは、私はもう、何にも感じるのをやめなさいと私自身に言い聞かせているからです。

私はもう何も感じたくなく、考えたくなく、思いたくなく、価値を持ちたくなく、美しいものを見たくなく、

あれほどすきだった感傷を、もう求めたくもないと思っているんです。

 

そうして強く思っているんです、もっとひどいものが来る前に、無になれないものか。

世の中はどんどんひどくなっていくのに、この日常があるのが怖くて仕方ないんです。

そして、私はそれをまともさだとも思っているんです。

昨日思い立って、部屋の古い本の処分をしました。
1Kの家具付きの家を引っ越し引越しして、結局持ってく荷物なんて、クローゼット一つ、本棚、以上。それでも、本は増えていくし、定期的に捨てないと引っ越し族は暮らせません。
でも本を捨てることは本当につらい。私の中にある引き出しの鍵が、一個いっこ消えてしまうように感じるし、そこまで思わせてくれる本じゃなきゃそもそも買わないし。結局読み返す頻度と照らして、次読むときは図書館か、はたまた買い直そうと言い聞かせてエイヤーと捨てるんですが。
それと同じく、辛いのが、黒歴史の創作物たちです。
 黒歴史の創作物、私も量産してきましたが、そういえば私はよく、「小説読んでもらえませんか」と頼まれます。飲み屋で隣り合わせた人とかに。
 ゴールデン街の立ち飲み屋で、地方のカフェバーで、それからバーテンダーさんにも言われたことが。そして、驚くほどの事ではないかもなんですが、全部が全部同じテーマを書いていて、それが全部滑ってしまっていました。なぜか、みんなボーイ.ミーツ.ガール小説で20代から30代の男が主人公で清楚な美人と出会って、自分の心の空白を埋めてくれる話です。傍目にはそんなふうに見えない方々ばかりなんですが、この人たち一度も女の子と付き合ったことがないんじゃないかと思わせるファンタジーっぷりです。こんな面白い人が、思慮も深いし、見た目も結構良いしセンス良いし、どうしてこんな人たちがこんなふうに書いてしまうんだろう、と目を見張りましたが、そう考えると、その人自身の人となりや人生経験と創作物としてアウトプットされるものはあまり連動していない気すらします。

 さて、わたしは過去の黒歴史たちの山を整理して、驚いたことが2つありました。ひとつは十年も前なのに、自分の内側の深みは驚くほど変わっていないことです。思えばわたしは昔は外の世界に全く興味なく、古い本とかばかり読み漁って内側のことばかり考えてきていて、一方この十年は、社会と自分のチューニング作業だったので、内側にはほとんど手が加わってませんでした。だから、捨てるかどうかなんて考える必要はあまりまりませんでした。私が以前書いた言葉は、変わらず私に据え置かれていました。もうひとつが、9割型が、ひどいものだったけど、のこり一割は「へー、よく考えて書いてるなー」と思ったことです。こんな感想を抱けるのだから、黒歴史は10年ほど寝かしてもいいかもしれない。
と書いていたら、バーにお酒のみに行きたくなりました。まただれかが小説読んでくれませんかと、頼んでくれたら良いな。
実は去年からレオパレスに住んでます。
超遠距離の転勤に見舞われ、家電を全部持ってくと50万近く引越し業者の費用だけでかかるので、やむなく家具家電付きの家を探した次第。

レオパレスって壁薄いとか狭いとか悪い噂は多いですが、私は好きですレオパレス。いや、間違いなく壁は驚くほど薄いです。隣の部屋の人の咳とか水洗音とか筒抜けだし、せれは狭くて人を呼ぶのはきつい。
にもかかわらず、好きなのは多分レオパレスのものすごいかりそめ感のせいだと思います。
家具も家電も、せいぜいニ、三年のお付き合いでさようなら、全部残していきます、そういう感じ。
何かを所有して長く連れ添うという意識はもう、常に居座るストレスみたい。
そうじゃない人もいるでしょうが、私には、確実にそう。人もそう、ものもそう。
ずっと連れ添うものはせいぜい1つ2つが良くて、それ以上は容量オーバー。