昨日の妻の大誕生日祭りの様子を書く予定でしたが、突然飛び込んだ、桑名正博さん重体の知らせに驚き、何もできませんが、私や、多くの大阪の人たち、その他大勢のファンの皆さんのように、回復を祈ります。
昨日もライブを香川県でやったそうで、その翌日ですから、周囲の誰も予想しなかったんだと思います。
まだ58歳ですし、まだまだ体力もあると思いますし、何もわからず勝手なことばかり書きますが、桑名さんは私たち、大阪で1980年代、20代で夜な夜な飲み歩いて遊びまわっていた頃の一番の大阪の有名人だったような気がします。
私が最初に桑名さんを好きになったのは、1979年に静岡県嬬恋であった伝説のロックフェス、HOT JAMのステージです。
中学生の私は、TVでそのコンサートを見ました。
その時はTEAR DROPSというバンドを率いて、カーリーヘアで登場しました。
ロックフェスと言っても当時の日本ではニューミュージックの時代で、フォーク系の歌手が多く、南こうせつが中心になってたと思います。
TEAR DROPSというバンドは多分、そんなに有名ではなく、出番も前の方でした。
ただ、そのライブのかっこよさに相当しびれたので、30年以上経った未だに覚えているんです。
当時ガキの私にとって、映像で見る日本のロックというのは、ほとんどなかったというか、ハードなバンドは売れない時代でした。
ところが、このバンドは大音量で、私が憧れたギター、当時日本で使ってるのをほとんど見たことが無かった、BC RICH社のギターを使い、すごいギターソロを見せて、当時のヒット曲、サードレディを演奏しました。
カッコよすぎて、何の資料もなくても、具体的に思い出せるほどなんです。
その後、何年か経過し、私は20歳になり、18歳の頃、音楽界で生きて行こうと、東京に出て行ってた生活から、現実に戻り、大阪で会社員になりました。
その時入社した、ハチャメチャな会社は、今では影も形もありませんが、ひげや長髪や個性豊かな先輩たちばかりの、旅行会社でした。
そこで私は、相当にかわいがられ、金もないのに、毎晩のように、キタやミナミの繁華街に行き、酒や遊びを覚えさせられました。
稼いだ金は服と酒に消え、DCブランド全盛期でしたから、私が好きなコムデギャルソン・オムやY's あたりの服を無理して買って着ていましたね。
洋服のローン支払がいつもありました。
その荒れた生活が楽しくて、その会社を短期間で退職した後もそのメンバーとの付き合いが、再び、私が東京行きを決意するまでの10年ちょっと、続きました。
仕事しながら、バンドやったりして、当時は、まだカラオケボックスもなく、歌はスナックやラウンジなどで歌うものでした。
私たちが金があるときに行くのが、高級パブ、TASKという店でした。
大阪ミナミのど真ん中、三津寺筋、クイーンズコートビルにその店はあります。
大阪の遊び人には、格が違う、桑名さんがよく来ていると聞いて、いつ会えるかと楽しみにしながら行きました。
その店はカラオケではなく、バンドの生演奏で歌える店です。
洋楽をいっぱい歌って、本当に気持ちのいい大好きな店でした。
その店で、会社の先輩2人、男同士で歌った歌こそ、桑名さんの代表曲、月のあかり でした。
初めて聞くその曲の良さに店内は静まり返り、歌い終えると大歓声だったので鳥肌が立ちました。
その後、そのうわさが広まったのか、カラオケボックスブームになり、この歌をものすごくたくさんの人が歌うようになってきました。
TVで、大阪人が誰でも知ってる曲として紹介もされていたほどです。
そのムーブメントはあそこから始まったんだ、と今でも懐かしく思います。
もちろん、本物の桑名さんの歌も聞きたくて、その後何度かコンサートにも行きました。
私は、いつのまにか、妹の桑名晴子さんのファンにもなり、今でもブログを読んだり、応援したりしています。
晴子さんからは、メッセージにも返事をもらえてうれしかったです。
晴子さんとは飲み屋で偶然2度も会ったり、気さくに話ができたり、ライブも相当数見に行きました。
私と弟は、桑名兄弟の歌声にずっと、癒されてきましたね。
桑名正博さんは、ボランティア活動が売名行為のように目立たないように活動をたくさん続けておられます。
コンサートで身障者の方を招待したり、いつも弱い人の味方でもあります。
裕福な家庭に生まれ、若いころは、桑名財閥のボンボンだと、うちの母もよく言っておりました。
あの、唯一無比の独特な歌声で、復活してまだまだ頑張ってほしいと思います。
多くの尊敬するミュージシャン、あこがれたミュージシャンがいますが、桑名さんは私の中では特別な存在です。
TVに出ると聞いたら必ず見たくなる方です。
どうか持ち直されることをお祈りしたいと思います。
昨日もライブを香川県でやったそうで、その翌日ですから、周囲の誰も予想しなかったんだと思います。
まだ58歳ですし、まだまだ体力もあると思いますし、何もわからず勝手なことばかり書きますが、桑名さんは私たち、大阪で1980年代、20代で夜な夜な飲み歩いて遊びまわっていた頃の一番の大阪の有名人だったような気がします。
私が最初に桑名さんを好きになったのは、1979年に静岡県嬬恋であった伝説のロックフェス、HOT JAMのステージです。
中学生の私は、TVでそのコンサートを見ました。
その時はTEAR DROPSというバンドを率いて、カーリーヘアで登場しました。
ロックフェスと言っても当時の日本ではニューミュージックの時代で、フォーク系の歌手が多く、南こうせつが中心になってたと思います。
TEAR DROPSというバンドは多分、そんなに有名ではなく、出番も前の方でした。
ただ、そのライブのかっこよさに相当しびれたので、30年以上経った未だに覚えているんです。
当時ガキの私にとって、映像で見る日本のロックというのは、ほとんどなかったというか、ハードなバンドは売れない時代でした。
ところが、このバンドは大音量で、私が憧れたギター、当時日本で使ってるのをほとんど見たことが無かった、BC RICH社のギターを使い、すごいギターソロを見せて、当時のヒット曲、サードレディを演奏しました。
カッコよすぎて、何の資料もなくても、具体的に思い出せるほどなんです。
その後、何年か経過し、私は20歳になり、18歳の頃、音楽界で生きて行こうと、東京に出て行ってた生活から、現実に戻り、大阪で会社員になりました。
その時入社した、ハチャメチャな会社は、今では影も形もありませんが、ひげや長髪や個性豊かな先輩たちばかりの、旅行会社でした。
そこで私は、相当にかわいがられ、金もないのに、毎晩のように、キタやミナミの繁華街に行き、酒や遊びを覚えさせられました。
稼いだ金は服と酒に消え、DCブランド全盛期でしたから、私が好きなコムデギャルソン・オムやY's あたりの服を無理して買って着ていましたね。
洋服のローン支払がいつもありました。
その荒れた生活が楽しくて、その会社を短期間で退職した後もそのメンバーとの付き合いが、再び、私が東京行きを決意するまでの10年ちょっと、続きました。
仕事しながら、バンドやったりして、当時は、まだカラオケボックスもなく、歌はスナックやラウンジなどで歌うものでした。
私たちが金があるときに行くのが、高級パブ、TASKという店でした。
大阪ミナミのど真ん中、三津寺筋、クイーンズコートビルにその店はあります。
大阪の遊び人には、格が違う、桑名さんがよく来ていると聞いて、いつ会えるかと楽しみにしながら行きました。
その店はカラオケではなく、バンドの生演奏で歌える店です。
洋楽をいっぱい歌って、本当に気持ちのいい大好きな店でした。
その店で、会社の先輩2人、男同士で歌った歌こそ、桑名さんの代表曲、月のあかり でした。
初めて聞くその曲の良さに店内は静まり返り、歌い終えると大歓声だったので鳥肌が立ちました。
その後、そのうわさが広まったのか、カラオケボックスブームになり、この歌をものすごくたくさんの人が歌うようになってきました。
TVで、大阪人が誰でも知ってる曲として紹介もされていたほどです。
そのムーブメントはあそこから始まったんだ、と今でも懐かしく思います。
もちろん、本物の桑名さんの歌も聞きたくて、その後何度かコンサートにも行きました。
私は、いつのまにか、妹の桑名晴子さんのファンにもなり、今でもブログを読んだり、応援したりしています。
晴子さんからは、メッセージにも返事をもらえてうれしかったです。
晴子さんとは飲み屋で偶然2度も会ったり、気さくに話ができたり、ライブも相当数見に行きました。
私と弟は、桑名兄弟の歌声にずっと、癒されてきましたね。
桑名正博さんは、ボランティア活動が売名行為のように目立たないように活動をたくさん続けておられます。
コンサートで身障者の方を招待したり、いつも弱い人の味方でもあります。
裕福な家庭に生まれ、若いころは、桑名財閥のボンボンだと、うちの母もよく言っておりました。
あの、唯一無比の独特な歌声で、復活してまだまだ頑張ってほしいと思います。
多くの尊敬するミュージシャン、あこがれたミュージシャンがいますが、桑名さんは私の中では特別な存在です。
TVに出ると聞いたら必ず見たくなる方です。
どうか持ち直されることをお祈りしたいと思います。