少し、昔を思い出しました。
細かいときりが無いので思うままに振り返ってみます。
勉強、仕事編 前編です。


私は勉強をしない怠け者でしたので、ずいぶんと母をがっかりさせたと思います。
幼稚園のときに九九が出来たり、世界の地理を覚えたりしたので、その頃は「天才」扱いされたのを覚えています。

図に乗ったまま、小学校に入っても最初は勉強は簡単すぎるのでさらに図に乗ってしまい、本を読むときに詰まりながら読む子をからかったりしていました。

小学生の頃は勉強得意でないくらいの方がいいかもしれないとたまに思います。
子役スターが大人になると売れないのと似ているような気がします
子供のときは普通がいいです


中学受験をしようと思いましたが、何か遊んでるほうが楽しいので流されてしまい、地元の中学に入り、悪いことを覚えていき、高校受験前には一流校には入れないようになっていました。

そりゃそうです、勉強した記憶がありませんから。
宿題はしないし、教科書も持たずに学校行ってました。
親に無理やり中3の途中で転校させられて、(先生はこの時期に転校すると大変ですよと、言ってたのに「いえ、ここは良くないから」と言ってましたね)

中3のときは甲子園球場でビール売り子のバイトを始め、新聞配ったりして、しかもハンドボール部で熱血教師の下、朝練もやって、授業中は熟睡で、休み時間に起きては誰かの弁当をもらって食べ、というひどいものでした。

昔から、雑学みたいなのが好きで、入試には何か知らないけどうまく受かって、希望の高校に入りました。

高校からはバンドに夢中になり、全く勉強しなかったので入学時にはクラスのトップクラスの成績だったのに、高2のときは、全学年確か、480人くらいいて、下から3番目くらいになりました。

教師からは屁理屈ばかりでお前は嫌いだとか言われて、順番に名前を呼ぶときも飛ばされたりして、自分から「お~い」と言うと、「なんだ、いたのか」とか言われました

話が長くなりましたが、高3のときにいよいよ、卒業単位が取れなくて留年は90%確定と言われて、進路相談にも呼ばれなくなりました。

そのとき、初めて真剣に「勉強」しました。
今まで平均点が10点くらいの主要5教科で平均70点取らなければ留年でした。

もう誰もが無理と言うのでせっせと詰め込み勉強しましたね。
そして、無事に卒業できました。

カンニングしたと言う疑惑をかけられて、後日別室で1人再テストを受けさせると言う、今では考えられない人権問題もありましたが、無事に突破して卒業式の時には胴上げされ、母が先生や級友に何度も頭を下げていたのを覚えています


その後、バンドで食っていきたくて東京に行きましたが、食っていけなくて、バンドマンの道をあきらめて社会人として就職しても、仕事をしているふりをしているだけの問題児で、金も無いのに遊び歩く、だらしない日々を送りました。

でも、サラリーマンの矛盾を数々感じて、上司にも魅力を感じられなくて、ここでは一生理想の暮らしは出来ないと、20代前半で会社を辞めて、オンボロトラック買って住宅建材リースの下請け業を始めました

そのときに売り上げが100万超えて、経費払って、バイトに給料払っても結構な額が残ったので、もう人に雇われるのは絶対に嫌だと思うようになりました。

でも、怪我を何度かして、現場に出れなくなり、もともと好きだった飲食業に転進します
居酒屋で店長になりましたが、社長は不動産業で強烈な借金を抱えて倒産して店も吹っ飛びました。

その前後には、かなりいろんな仕事を経験して、自営もやったけど、不渡り手形をつかまされてあっけなく倒産しました。

30歳になり、天の啓示か、突然ラーメン屋になりたいと強く思いました。
これから絶対に流行ると思って、着替えの入った、かばんひとつで横浜に飛んで、昔のバンド仲間の横浜のアパートに転がり込みました。

それと同時に体調が悪くなって、横浜の病院に2ヶ月近く入院しました。
そのときは会社経営してたときに契約した大きな保険にいくつか入っていたので、退院後、入院保険金が200万円くらい入りました。

会社倒産したときの借金を払って、一文無しになって、まず軽井沢近くの住み込みのキャベツ畑で働きました。
そこの社長に最初は嫌われて、口も利いてもらえなかったですが、その後なぜか、非常によくしてもらって、今でも付き合いがあるようになりました。

3年程前には、妻と山岸さんと3人で一緒に、そのキャベツ畑の社長に会いに行きました。
草津温泉の近くで温泉の帰りに寄ったら歓迎してもらって、焼肉屋でごちそうになり、吐くほど飲んで大変でした。

キャベツ畑は短期バイトでしたので収穫が終わって、10月には仕事が終わり、山を下りて(笑)
横浜に戻りました。

偶然見つけた募集広告を見て、おいしいかどうかも、わからない見た事も聴いたことも無い店に面接に行きました。

31歳で月給16万円での再スタートでした。
住み込みの部屋は、隣の部屋のおっさんの通り道で寝てても突然ふすまが開いて何度も通ります。

4店舗ある店はどこも大繁盛で、ピーク時はトイレに行くこともできないほどでした。
差し入れの缶コーヒーをいつまでたっても飲めないで、のどがからからになったのを覚えています。

ワンマン社長が気に入れば給料は上がるし、嫌われたら飼い殺しみたいな店でした。
入って3ヵ月後に給料が25万円になりました。
社長からは「ウチでは前例の無い特別昇給だ」と言われうれしかったのですが、5年働いて16万のままの人もいたので、ちょっと気まずかったりもしました。

ぼろぼろの寮を出て、マンション借りました。
車も無く自転車でいつも横浜伊勢崎町から石川町や曙町、日之出町と繁華街を通勤していました。

給料50万もらってた当時の店長が嫌な奴でした。
でも彼に教わらないと独立の道は遠いと思いました。
何も教えてくれませんでしたが、いつもべったり近くにいて、目で盗んでいきました。



その後、品川で自分の店を出すまでは、またいろいろとあるのですが、それは、またの機会にします。
後編があるかどうかは気分しだいで。




若い頃、勉強をしなかったので苦労をしたのか、独立しようと思うから苦労したのかはわかりません。
親が資産家なら経済的に苦労しないかもしれないし。

でもきちんと勉強するのはいいことだと思います。と言うか、やっぱり必要ですね。
フィリピンにいて勉強不足というか、九九すらできずに生きてきて貧乏な人たちを見て、自分の昔を思い出しました。

最低限必要な常識や知識は無いと裕福になれないでしょう。
また学校で教わらないことも社会では多くて、これは経験を積むしかないですね。

故 青木雄二氏の関係する作品、ナニワ金融道、カバチタレ、極悪がんぼ、あたりは学校では絶対教えてくれない経済知識がたっぷり詰まっていました。(唯物論も私にはいい本です)

これは、好き嫌いがありますが、必須だと私は思います。
世の中には裏と表の世界があります

まじめに生きてきても、あっと言う間に地獄に落とされることもあります。
エリートコースを歩んでると勘違いしている勤め人は特に危険です。

連帯保証人や手形の不渡り、裏書、担保の取り方から、追い込まれた人間の末路まで、世の中の本当に必要な常識が勉強できます。

そしてそれからいろんな物を読むようになりました。

正直言って、こういう裏知識のおかげで、ずいぶんと多く、その後知り合った人などや、昔の友達など、まじめな人の相談を受けて解決してきました。
自殺するかどうかで悩んでいる相談も受けて解決しました。
ちなみに、当然無報酬です。無資格ですから。


今は竹原慎二のボコボコ相談室
これいいですね。
意見がいつも一致します。

どんな形であれ、何かを学び続けるのは必要ですね。

私は今は英語を学ぶことに集中したいと思います。