冬季オリンピックが開幕しました。
時差があるので見てみたい競技は全部深夜です。

ぜひ、感動の名場面を見て、自分も頑張るんだと闘魂注入したいと思います。
フィリピンでは冬季五輪はニュースにもなってないんじゃないでしょうか?

夏季五輪でも関心は薄いですから、冬季はケーブル以外では放送すらないでしょうね、きっと。
ミスユニバースが世界最大のイベントのようですから、不思議な国です。

バレンタインデーが近づきましたが、妻はいまだにフィリピンにいます。
21日に帰ってくる予定です。
離れているとさびしいけど、ケンカもしません。

帰ってくると嫁姑問題が再燃し、私の心が痛みます。
いいことばかりはありゃしないって清志郎も歌ってました。

そういえば、最後のコンサートツアーを途中で病気のため降板した吉田拓郎はその後回復したんでしょうか?

最近、命には終わりがあることを実感して、大事な人、子供の頃に憧れた人たちが亡くなる怖さを感じます。

友達でも知り合いでもない人でも、その人のファンだったりすると、大変悲しみますし、つらいものです。

拓郎との出会いは、小学校のときになります。
必死でギターをかき鳴らし、歌っていた人の多くは拓郎やかぐや姫などを歌っていました。「落陽」のイントロなんてウチの家族も全員が弾いていました。
その後、彼を慕っているミュージシャンの数の多さや、その人たちから又聞きする伝説によって私の中でもカリスマになりました。

昨年、フィリピンでカラオケに誘われた際も、日本の50代の商社マンが拓郎の曲を熱唱して私も熱くなり、拓郎でお返しをしました。

自分の作品だけでは無く、歌謡界にヒット曲を送り込み、当時は日本音楽界の最高峰である、正装が常識のレコード大賞に作曲家としてジーンズで表彰式に臨んだこともありました。

私が大好きな、襟裳岬、キャンディーズのやさしい悪魔、アンドゥトロワも彼の作品だしその他いろんなジャンルの人に曲も提供し、プロデュースしてきました。

きっと、私が好きな日本人大物ミュージシャンのほとんどが彼を尊敬していることは容易に想像できます。
それほど影響を与えた人だと思います


ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋した彼の紹介文

日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。

オリンピックとは何ら関係ありませんが、私の好きな拓郎作品の中に「外は白い雪の夜」という曲があります。

忘れもしない、1994年紅白歌合戦に吉田拓郎が出場すると聞いて大変驚きました。
当時拓郎がテレビに出るというのは、それだけでニュースでしたから。

もうその時すでに、30歳前の私は、いろんな音楽も知り、拓郎の事は思い出になっていたのですが、
その紅白のステージはとても貴重なものだと思い、その頃、年末の夜は、大阪港区の、弁天町のバーでカウントダウンするのが恒例でしたが、私は自宅に戻り固唾を飲み、その曲を聴きました。

大げさかもしれませんが、それほどの私の中の大イベントになったのは、もうひとつ理由があります。
たった1曲の演奏に集まったメンバーがすごかったんです。

E・Guitar 渡辺香津美 A・Guitar 石川鷹彦 Bass 吉田建 Piano 大西順子 Piano 宮川泰
 Tranpet 日野皓正 Drums 日野元彦  そして コーラスには、森進一・五木ひろし・前川清です。

すごい顔ぶれでした。
余談ですが、私はこのときのメンバー、日野元彦さんのドラム教室の生徒でした。
日野皓正さんの弟さんですごく、いい方でしたが、残念ながら数年前に亡くなってしまいました。

だからこのときの演奏は思い出深くて、今日、五輪開会式の白い雪の光景を見ながら思い出しました。
最後とは言わずにもう一度ステージに上がるところを見たいと思います。

Youtubeでこの映像を見つけました。とてもうれしかったです。