私は少し頑固なのかもしれませんが、いろんなものを疑ってしまうことがあります。
頑固と言うより、擦れているというか、素直じゃないのでしょうか。

特に宗教に関しては今までに、さんざんお誘いを受け、お祓いを受け、いろんな神様に助けてもらっているはずの私は、ひとつの宗派に入信することができません。

恐れずに理由を言うと、信用できないし、ひれ伏して財産を差し上げる理由が全く見つからないんです。

心の救いとお金がリンクしている世界がいくら、オブラートに包まれても、お願いが1回いくらとか、売店に案内されると一気に冷めてしまいます。
「家内安全なら1000円です。 あ、商売繁盛も祈願されますか? じゃあ2000円で、お母さんの病気はいいですか? 交通安全は? あ、はい じゃあ4000円ですね」

お金は払いますが、何も受け取らなかったりします。
理由はそれらのお願い事を書いた札を護摩焚きといって火の中にくべてくれるからです。
札も目にすることはありません。

きっと、その通りにしてくれているとは思いますが、そのありがたさがピンと来ません。
それに、よくあるのが、寄付が善行で必ず良いことになって帰ってきますが、貯蓄すると良くないですよ。溜め込むとろくなことがありません。、なんて言われたらもう駄目なんですよ。

現実にいい思いをしているのはお金をたくさん溜め込んでいる人ばかりじゃないですか。
○○教の教祖様と言う人には直接お会いしたことはありません。

どこの宗教も簡単に会えないです。
特別な存在だからでしょうか?

若い頃の経験談ですが私は、商売に失敗して取引先に逃げられ700万円の不渡り手形をつかまされて途方に暮れたことがあります。

そのときに逃げた取引先の社長は創価学会の熱心な信者でした。
不渡りを出した後に、本部に相談に行き、助けてくださいとお願いしたところ、本部の偉い人が
「とにかく、ご本尊の前で一生懸命にお経を唱えるんです」
と言われて、それこそ3日3晩、巨大な仏壇の前でお経を読んでたそうです。

大金持ちの池田名誉会長にも会えないし、誰一人として信者同士の金銭貸借はご法度として助けてくれなかったと聞きました。

そのとき、片や私は、その社長にお金を貸した暴力団の組員に呼ばれてそこの親分さんに事情を聞かれていました。
初めて会う、大物親分は私の話を聞き、「大変だったなあ」といい財布からお金を数えないで札束を出して私に手渡しました。
50万円くらいはあるように見えました。

私はその親分も信用できないですから、「いえ、お気持ちだけ受け取らせていただきますのでお金は結構です」と固辞しました。

その親分は笑って、「俺も今、結構貧乏してるねん。誰も君にあげると言ってないよ。でも、お金が無いんだろ。また君はお金を作れると思うから、お金ができたら返しに来て」と言って、さらに「何か困ったことがあったら相談に乗るからいつでも、気楽に遊びにおいで」と言ってお金を置いて立ち去りました。

映画みたいです。全財産失っていた私は本当に助かりました。
だから、そのときはその親分さんのことが神々しく見えました。

誰にも相手にされず、金も持たない、嫌われている不良少年が、こんなことされると、感動して「この人のためなら死んでもいい。おやっさん さかずき下さい」と思うようなシチュエーションでしょうか。

ひねくれた見方をすれば組員にするための手口と言うかもしれません
先に恩を売り、後で死ぬまで忠誠を誓わせるための。

だから私は数日後、何とかお金を工面して、その方の運転手さんに連絡をして、お金を返しに行きました。
悩んだのですが、気持ちとして、5万円の御礼をプラスして渡したところ、怒られました。
「そんなつもりで貸したんじゃない。気持ちはわかるが、こんなことをするな」
と言うことでした。

その後、その方からは優しい言葉を掛けてもらうことはあっても、何一つ迷惑を掛けられるどころか、食事や温泉にまで連れて行ってもらって、(それは、周りの子分たちと、一緒ですから本当は断りたかったのですが断れないでしょう。)いろいろと可愛がってもらいました。

後から聞いたのですが、その頃、親分さんは子分の不祥事の責任を取り、自家用ベンツを売りに出すほど、金策に困っていた時期だったと聞きました。
それを聞いたときは驚いて嬉しくて涙が止まらなくなりました。

現在は、その方は引退されまして、十何年とお会いしていませんが、私にとっては足を向けて眠ることができない方です。

悲しいかな、取り巻きの中に危険な方が多すぎて、挨拶に行くことも未だ叶いませんが心の中にそのやさしさは強く残っています。

ずいぶんと脱線しましたが、義理人情と言う世界はやくざだけの世界ではないと思います。
本当に困ったときに見返りを求めないで助けてくれる人など、なかなかいません。

私は身内でもないのに借用書も何も書かないで助けてくれる人に出会ったことがあるので、見知らぬ話の上手な人が、宗教家のように私に話をされて、さあ、あなたも入信して仏像を買って毎日お祈りしましょうと言う話には、全く心が動かないのです。

そして熱心な信者になっている友人には、そこまで話はしませんが、うまく断っています。

自分が不幸に思えたり、自分に自信が持てなかったり、友達がいなかったりと、そういう誰でも少しは持っているコンプレックスに付け込むようなやりかたで信者を集め、不幸だった人に幸せを与えていることも理解できます。

ビジネスですか? と聞くとみなさん「違います」と言う人が多いですが巨大ビジネスですよね。
宗教も、自己啓発も、マルチ商法も似ているところはありますね。

私にしたら、その中では出世できそうに無いからやめときます。 って感じでしょうか。
じゃあ、私の信じてるものって、なんだろう。

何人かの友人と、家族ですね。やっぱり。
そして、歌の中にある言葉に感動したり、有名な誰かが語る言葉に教えられたりしています。
って、ごく普通ですね。

ちょっと違うのは、フィクションでもノンフィクションでもそこは、あまり気にしないですね。
昔、誰かが言ったことなんて、又聞きの繰り返しでホントに言ったかどうかなんてわからないでしょう。
信長・秀吉・家康のホトトギスの話なんていい例ですよ。
誰もそんなこと言ってないかもしれないですよ。

結局、私が自信を持っていえるのは、病気の人を手をかざすだけで治す人とか、空を飛べる人とか、そういう超能力を持っている人はすごいですが、それで金儲けしてる時点で偽物ですよ。
まあ、超能力を持ってるという時点で99%怪しいです。

ひとつ理解できないのは、フィリピンで古い教会に良く行きますが、ある場所に行くといつも感動して涙が出ます。
それは、建造物の美しさなのか、神様の存在を感じて感動してるのか、いまだによくわかりません。