私が子供の頃から母はいつも正しい人でした。
そして、きれいで、やさしくて料理が上手で自慢の母でした。

今は要介護になり、不自由な身体ですが、歩行器を使い、何とか自分でトイレに行きます。
母の生活には常に誰かそばにいなければ、生きていけなくなりました。

何度となくブログで書いている母の介護ですが、当初、兄貴に介護を代わるように頼まれた時は、いやではありませんでした。

それは、私が18歳から家を飛び出し、親孝行することも無く今まで好き勝手してきた負い目もあるし、私が妻と一緒に母を介護すれば、いつもイヤイヤ介護して、苦しんでいる兄貴のストレスも無くなり、家族に平和が訪れるように思っていたからです。

私の誤算は、母が妻を嫌うことでした。
フィリピン人の妻は、日本料理も苦手で、むつかしい言葉は理解できないこともあり、日本語の読み書きが苦手です。
外国で育ったから当たり前なんですが。
母はそんな妻を見て、頭が悪いと感じたようです。

母は好き嫌いが激しく、嫌いな相手のことをとことん嫌います。
テレビを見ながら嫌いな芸能人が出てくると、必ず「こいつは嫌いだ。出てくるな」と言います。
その好き嫌いが変わることもありません。

でも、がんばって見直してもらおうと努力しています。
日本料理の腕は私も指導して料理教室にも通い、相当おいしい料理を作るようになりました。
母以外にも私の兄貴家族にも振る舞い、皆がおいしいというようになりました。
家の中も以前とは見違えるようにきれいになり、妻は毎日欠かさず掃除をしてくれます。

妻は愛想もよく、どこに行っても好かれます。
姪っ子たちも妻が大好きです。もちろん私の兄弟達もです。

でも、やはり、母はダメです。
妻を毛嫌いしています。
全く変わりません。

先日、あまりのひどさに妻が切れてしまい、たまりたまったストレスを吐き出して、涙を流し、母の手を握り、もっと頑張るから私を認めて欲しい、優しくして欲しいと訴えました。
そのとき母は「わかった。」と言ってたので少しは良くなると思ったのですが、やはり私は甘かったようです。

実は、昨日兄貴の妻(義姉)に私が呼ばれていくと、そのときの、妻が泣きながら母にお願いしたときの話しになりました。
義姉は、昨日、私たち夫婦で出かけたときに姪っ子をつれて遊びに来ていたのです。

母は義姉を見つけるとスグにその話を切り出したそうです。
母「怖い女や。 私の手や、足をぎゅっとつかんで、泣きながら迫ってきた。
わけのわからん話をするので、わかった、わかったというと、ようやく手を離したわ。」

妻の心からの訴えも叫びもボケ老人には届きませんでした。 アホです。
さらに 「何のために日本にいるのか。さっさと自分の国に帰ったらいいのに」 と言っています。

私は情けなくなり、妻に申し訳なく思いました。
母は明らかに人種差別をしています。しかも 自分の面倒を優しく見てくれる相手にです。
私は介護を再び、兄貴に頼むか、無理なら施設に入れたいと考えています。

無責任かもしれませんが、介護に疲れて、親を殺す人もたくさんいます。珍しくも無い現代の悲劇です。
私はそんなこと100%ないと今は言い切れますが永遠にそうなのかは自信がもてなくなりました。
母は私にとってたった一人の大事な存在ですが、その前に人としては、完全におかしくなってしまい、悲しいけど良い人間ではなくなってしまいました。

痴呆の始まった老人に道徳や常識を教えて改善するのはむつかしいです。
さんざん説教する私のことも聞きません。
腹話術を使って、妻が私を操っていると思っています。
私には答えがなかなか見つかりません。

妻は太陽のように明るくこう言います
「私はあきらめない。お母さんに私のことを理解してもらえる日が絶対に来る。神様が私に与えた試練なの、これは。
だから、厳しくされたおかげで、料理もうまくなったでしょ。
つらいけど、もう少しがんばってみる」

妻の努力を母が理解して受け入れられることをいつも願ってやみません。
このままだと、母もロクな最期を迎えないでしょう。 因果応報という言葉もあります。
私もあきらめないで、事あるごとに「仲良くしよう。妻を家族と認めて、やさしくするように」と母に話しています。
嫁姑ってなんなんだ、いったい!
最近、胃が痛くなってきました。

今週末から久しぶりのフィリピンで命の洗濯をさせてあげようと思います。
お金はありませんが(笑)

いつかきっと、わかってもらえることを願って、大好きなRCサクセションの曲
「わかってもらえるさ」 を聞いてください。
無名時代の曲ですが、私の高校生の時から大好きでした。