私がフィリピンでラーメン屋をやりたいと思ったのは、一昨年のことでした。
すいぶんと昔のような気がします。
そう思う前に、私がラーメンを作っていたのは新宿です。
それも、超激戦区として有名なところです。
日本でラーメン修行を始めたのが10年ちょっと前で、その後2年ほどして、最初の店を品川に出しました。
小さな店で、場所も悪いと思って、自分自身その店のことを愛せてなかったように思います。
「この店から抜け出して、いつか激戦区といわれる地区に出店してみたい」 といつも思っていました。
何年かして、多くの方に協力してもらって、その激戦区に出店しました。
そこで待っていたのはつかの間の幸せでした。
簡単に言えば、私はその世界では負けたんです。
負けたというのは初めて書きますが、具体的には、もうその場所でラーメンを作る気力が無くなってしまいました。
理由はいろいろとありますが、繁華街の怖さを知らなかった私の甘さがまず原因だと思います。
次々と新店がオープンし、その代わり、閉店していく店が次々とあります。
聞いたことのあるような、有名店も必死で、割引や新メニューを開発して生き残りにはどこも必死です。
その戦いに負けないために、私なりに工夫して、スタッフにも一流の仕事を求めましたが、その厳しさにリタイアするスタッフも多く、空回りするようになっていきました。
周辺では、スタッフの確保に高い給料を設定し、私の店もそれに倣っていくうちに、高額時給になりました。
23歳の社員は30万円の固定給です。
一番給料の安い、日本語が出来ない洗い場のおばさんは、時給1200円です。
スタッフは常時6名くらいは必要でした。
店の家賃は50万円です。地代が大変高いので、お客さま駐車場もありません。
だから、常に忙しくないと、なかなか利益が出ません。
でも毎日、ピーク時はありがたいことに満席で外で待っている人が出るような状況でした。
その生き残りゲームに敗れ去るわけには行きませんので、年中無休にして、頑張っていました。
40歳を迎え、急に体の衰えを感じ、高血圧や糖尿病の心配を医師からされるようになりました。
夜中には足が痙攣したり、よく眠れなくなりました。
そのころお金には不自由せずに、高級マンションで暮らすようになっていましたが、とても不安だったのです。
近いうちに崩れ去ってしまいそうなガラスの城に暮らしている感覚でした。
私には過去、何度と無く経験した不思議な現象があります。
それは専門家の人が見ると不思議ではないのかもしれませんが、私の脳ではうまく説明が付きません。
ギリギリで必ず救世主が現れるのです。
強い運を持っているのでしょうか?
そうだと嬉しい気がします。
窮地に陥った時、目の前が真っ暗になり、絶望した時、
こういうことは人生のうちに何度か経験しました。
私は人一倍失敗も多かったと思います。
そういうときに、私はパニックになり、おかしくなりそうな寸前に必ずと言って良いほど、
どこからか救世主が現れてきました。
漫画の読みすぎではありません(笑)
その救世主は親しい人の援助や、新しく知り合ったばかりの人のアドバイスもあれば、電車の中の吊り広告にヒントがある場合もありました。
何度目かの苦境を脱しているうちに、私に強い自信が芽生え、逆境を恐れなくなってきました。
「ピンチはチャンスだ」 という意味が少し理解できるようになりました。
体も不調で心労も激しかったあの頃、久しぶりに休暇を取って、スタッフに店を任せてフィリピンに行ったときに
ひらめいたのがフィリピンでの起業だったのです。
救世主と言うより、突然ひらめくものがあったのです。
神の啓示のように思えました。
その後日本に戻り、冷静に考えようと思いました。
苦しい日々から逃げ場所としてフィリピンを選びたくなっているのかな?・・・
自問自答して冷静に分析していくほどに、フィリピンでの可能性が大変魅力的に感じてきてしまいました。
その思いは帰国後も強くなるばかりで、いつしか実現する準備に入っていきました。
そうした期間は私の体を癒したのか、つい最近まで心配だった成人病などの心配はなくなっていました。
病は気からですね。
結果、私は手がけてきたラーメン店の収益など権利も全て放棄して、代わりにそれ以上のモノを得ました。
私と関係がなくなったお店は、今でもちゃんと倒産しないで続いています(と思います 笑)
今現在、フィリピンでラーメン店の開店はできていませんが、それでも新宿で抱えていたストレスと比べると苦になりません。
それどころか、希望にあふれて、夢のある日々を過ごしています。
きっと、近いうちにフィリピンで開業できると信じています。
迷わない日々が、良い状況を引き寄せて夢の実現に向かっていけるように思います。