今日は、
「大東亜戦争の秘話」(1999年 名越二荒之助)から、
アッツ島の戦いについて、
引用したいと思います。
アッツ島玉砕の秘話(一)守備隊の勇戦と国民反応
昭和十七年六月、日本はミッドウェー作戦と同時併行的に、
アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に上陸、
無血占領した。
アリューシャンを制圧したのは①米軍の日本本土空襲を北から阻止すること、
②米ソ遮断、③そして日ソ戦争勃発の際、カムチャッカ半島攻略の基地とすること、
を狙っていた。
これによって日本の作戦領域は、
オーストラリアからマダガスカルにいたる空前の規模に及んだ。
しかしアッツもキスカも、
まぎれもない米国の領土である。
米軍は翌年の五月十二日、米本土に近いキスカを飛び越えて、
防備の薄いアッツ島に攻撃を仕掛けてきた。
米側勢力は、戦艦・空母を含む三十隻の支援を受けた、
一万一千の大部隊であった。
これを迎え撃つアッツの守備隊は、山崎保代以下二千五百。
山崎部隊は大本営からの支援を信じて、
勇戦敢闘したが、
二十日北部軍司令官樋口修一郎中将から、
救援作戦は実行不可能の電文が届いた。
更に二十三日に樋口中将は、
「凡百ノ手段を講シテ敵兵員ノ壊滅ヲ図リ、
最後ニ至ラバ潔ク玉砕シ、
皇国軍人精神ノ精華ヲ発揮スルノ覚悟アランコトヲ望ム」
と打電した。
大東亜戦争中、玉砕船が各地で戦われたが、
最後に命令の形で「玉砕」の語が使われたのは、
この時であった。
これで山崎部隊の望みは完全に断たれ、
部隊全員は壮絶極まりない死闘を続けた。
各陣地は次々奪われ、
最早一角を残すのみとなった。
残存兵力も百五十名になった時(五月二十九日)、
部隊長は最後の電報を送った。
その一節に軍人も軍属も、
「共ニ生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケザル様覚悟セシメタリ」
とあった。
翌三十日、
大本営は山崎部隊の玉砕を報じ、
三十一日の朝日新聞は、
「アッツ島に皇軍の真髄発揮/山崎部隊長ら全将兵/
壮絶・夜襲を敢行玉砕/敵二万・損害六千を下らず」
等の見出しをつけ、
本文では「この仇断じて打つ」「一兵も増援求めず」
「烈々戦陣訓を実践」「降伏よりも死を選んだ山崎部隊の後に続こう」と強調した。
さらに「朝日新聞」は、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を募集した。
一等に入選したのが兵庫県伊丹市の高等女学校教諭・裏巽久信の作品で、
山田耕筰が作曲した。
刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭こぞるアッツ島
山崎大佐指揮をとる
時こそ五月十二日
暁こむる霧深く
突如と襲う敵二万
南に邀へ北に撃つ
血戦死闘十八夜
烈々の士気天を衝き
敵六千は屠れども
吾また多く喪へり
歌詞は六番まであり、
ラジオから流れる悲壮のメロディは、
多くの国民が愛唱し、
「山崎部隊に続こう」が、
合言葉になった。
三十日、
杉山元参謀長が、
アッツ島守備隊の玉砕を昭和天皇に奏上した。
すると陛下は「最後までよくやった。
このことを伝えよ」と言われた。
杉山がすでに無線の受信機は破壊されている旨を伝えると、
すかさず、
「それでもよいから電波を出してやれ」と述べられた。
陛下の御意思は亡き英霊に電波で伝えられたのである。
※次回この本の続きを引用します。
「大東亜戦争の秘話」(1999年 名越二荒之助)から、
アッツ島の戦いについて、
引用したいと思います。
アッツ島玉砕の秘話(一)守備隊の勇戦と国民反応
昭和十七年六月、日本はミッドウェー作戦と同時併行的に、
アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に上陸、
無血占領した。
アリューシャンを制圧したのは①米軍の日本本土空襲を北から阻止すること、
②米ソ遮断、③そして日ソ戦争勃発の際、カムチャッカ半島攻略の基地とすること、
を狙っていた。
これによって日本の作戦領域は、
オーストラリアからマダガスカルにいたる空前の規模に及んだ。
しかしアッツもキスカも、
まぎれもない米国の領土である。
米軍は翌年の五月十二日、米本土に近いキスカを飛び越えて、
防備の薄いアッツ島に攻撃を仕掛けてきた。
米側勢力は、戦艦・空母を含む三十隻の支援を受けた、
一万一千の大部隊であった。
これを迎え撃つアッツの守備隊は、山崎保代以下二千五百。
山崎部隊は大本営からの支援を信じて、
勇戦敢闘したが、
二十日北部軍司令官樋口修一郎中将から、
救援作戦は実行不可能の電文が届いた。
更に二十三日に樋口中将は、
「凡百ノ手段を講シテ敵兵員ノ壊滅ヲ図リ、
最後ニ至ラバ潔ク玉砕シ、
皇国軍人精神ノ精華ヲ発揮スルノ覚悟アランコトヲ望ム」
と打電した。
大東亜戦争中、玉砕船が各地で戦われたが、
最後に命令の形で「玉砕」の語が使われたのは、
この時であった。
これで山崎部隊の望みは完全に断たれ、
部隊全員は壮絶極まりない死闘を続けた。
各陣地は次々奪われ、
最早一角を残すのみとなった。
残存兵力も百五十名になった時(五月二十九日)、
部隊長は最後の電報を送った。
その一節に軍人も軍属も、
「共ニ生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケザル様覚悟セシメタリ」
とあった。
翌三十日、
大本営は山崎部隊の玉砕を報じ、
三十一日の朝日新聞は、
「アッツ島に皇軍の真髄発揮/山崎部隊長ら全将兵/
壮絶・夜襲を敢行玉砕/敵二万・損害六千を下らず」
等の見出しをつけ、
本文では「この仇断じて打つ」「一兵も増援求めず」
「烈々戦陣訓を実践」「降伏よりも死を選んだ山崎部隊の後に続こう」と強調した。
さらに「朝日新聞」は、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を募集した。
一等に入選したのが兵庫県伊丹市の高等女学校教諭・裏巽久信の作品で、
山田耕筰が作曲した。
刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭こぞるアッツ島
山崎大佐指揮をとる
時こそ五月十二日
暁こむる霧深く
突如と襲う敵二万
南に邀へ北に撃つ
血戦死闘十八夜
烈々の士気天を衝き
敵六千は屠れども
吾また多く喪へり
歌詞は六番まであり、
ラジオから流れる悲壮のメロディは、
多くの国民が愛唱し、
「山崎部隊に続こう」が、
合言葉になった。
三十日、
杉山元参謀長が、
アッツ島守備隊の玉砕を昭和天皇に奏上した。
すると陛下は「最後までよくやった。
このことを伝えよ」と言われた。
杉山がすでに無線の受信機は破壊されている旨を伝えると、
すかさず、
「それでもよいから電波を出してやれ」と述べられた。
陛下の御意思は亡き英霊に電波で伝えられたのである。
※次回この本の続きを引用します。